毎日のように、母親が子供を殺したり、息子が母親を殺したりというニュースが流れる.昔から「社会部」というのは事件を追っているので、暗いことが多いけれど、家族でこんなことが続くのはやはりやりきれない。
親の葬式をあげて弔うことより、生きていることにして年金をもらうというのも、考えてみればかなりのことだ。
「家族を軽視する」というのは戦後の日本が進めてきた第一の目標で、「家族より個人」という考え方を徹底してきた.
特に学校では「家族の大切さ」を教えるのはタブーで、「個人が大切、個人が大切」とそれだけを教えるようになっている。教育基本法には日本人が基本的に備えなければならない徳目が列挙されているが、そこには親や子供、兄弟姉妹についてはまったく触れていないのだ。
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そんな中、突如として「個人を無視して家族が大切」ということができきた。本人の意志を無視して臓器移植をするとき、家族の同意だけで良いというのだ。
これにはビックリした。「家族は関係ない.家族は関係ない」と言い続けてきた国が突然、移植となると「家族と本人は同じ」となる。
いったいどうしたのだ?と思うけれど、実は理由は簡単だ.
年金をもらうためには親を弔わないでもよい、でも臓器が欲しいときには家族だ、とにかく日本人は誠実さも魂もなく、行き当たりばったり、自分に得になることならなんでもOKという世相どおりである。
戦後の一貫した考え方によると、家族の一人が死んでも、家族は誰も知らなくても良いし、その人にとって家族より地域とか仕事上のつきあいの人の方が「親族」に近いというのが政府の方針なのだ。
だから「子供手当」を支給する理由でも「これからは子供は親が見るのではなく、社会が見る」と白昼堂々と大臣が発言したりする.
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日本人というのは、論理的にものを考えるのは不得意だが、全体の調和を考え、誠実みがあるので、それが日本人の価値だった。
でも、年金をもらうときには個人、臓器を切り取るときには家族、となるとこれまでの日本人が築き上げてきた文化を根本から崩すことになると思う.
でも、「得」を前にすると、今の日本社会は、そんな矛盾にもすでに気がつかなくなってきているような気がする.
(平成22年9月2日 執筆)