自然科学者である筆者が経済学のような社会科学を勉強すると、社会で進行する事実と社会科学がそれを事前に解釈したこととの間にあまりに大きな差が見られることが多いのに唖然とする。つまり簡単に言えば、立派な学者が自信たっぷりに解説したことが、いとも簡単に覆されるのである.

たとえば、景気予測やバブル崩壊、金融崩壊のような大きなことは、数年前に経済学者が解析していた事実と結果予測と大きく違うことが多い。経済学を批判するつもりはないが、もしも工学でこのようなことが起これば航空機が墜落するなどの大惨事が頻繁に起こるだろう。それを防いでいるのは、大脳皮質の判断が間違うことが多いので、その補正を実験で出来るからである。

そして、我々の社会、つまり「工学」で予想が180度、はずれたりしたら恥ずかしくて世間様に顔向けできないし、仲間内の信用も失墜してしまうのだが、それも文化が違うようで、割合、間違いを言っていた人がテレビに出ていたりすると鼻白んでしまう.

 この関係、つまり不完全な脳活動を信頼して結論まで行くという方法は、人文科学でも同じで、心理学のように若干の実験を伴うものもあるが、哲学や歴史のように実験が不可能であるものについても、大脳皮質の論理処理の間違いをチェックしない。実に奇妙である.

 本来、この論で示してきたように人間の大脳皮質の論理は破綻しているので、何らかの方法でチェックが必要ではないかと思う。しかし、その学問分野は長い歴史と権威から成り立っていて、他の分野からの批判については極端に敏感であり、なかなか議論にはなりにくいのが現状である。まして、工学などの分野から歴史を批判しても、まったく問題にもされない。歴史の仲間はそんなことではまったく打撃を受けないからである.

 さらに、大脳の論理の破綻を考える上で、全く解明されていない情報処理の問題がある。

 人間は集団性を持つ動物である。集団性をもつ動物のもっとも典型的なものはボルボックスと呼ばれる原始的な生物であり、この生物は「個別の固体」と「集団としての固体」の区別はつかず、時に「個別の固体」が「集団としての固体」になると、集団の間に完全な情報を交換して行動する。ボルボックスより若干高等な動物の線虫のピラナリアは常に細胞は集団であるが、一つ一つの細胞がその集団の中でどこにいるのかを認識しているような挙動を取る。つまり、この場合も、より高度な形ではあるが、固体を構成する膨大な数の独立した細胞は、相互に認識を共有しているのである。

 もっとも人間に近い動物で集団の間で認識を共有している事実を観測できるのは、イワシである。イワシは完全に個体として完成し、個体として生存しうるが、イワシの大集団の運動は、大集団自体が一つの動物であると定義しても齟齬はない。

 また、人間が4時間半で血中の老廃物が一掃されるのに、7時間ほどの睡眠を求めるのは、昼間にあらゆる方向から入力された情報を、過去の経験に照らして「共有操作」をするのではないかとの研究がある。

 つまり集団性の動物は、集団の紐帯が強いほど他の生物に対する競争力が高くなる。従って、何らかの方法で集団の認識を統一しようとするDNAがあっても不思議ではない。というよりむしろ、身体の特徴から言えば、人間が集団の認識を統一するシステムをもっていないと考える方が困難である。

 この共有操作は、集団の中の自分を守るための操作であるから、それはその個体の刻み込まれた歴史認識に基づいている(この場合の歴史とは人間が認識していないものを含むので、歴史という定義を「人間が大脳皮質で認識している過去の事実の集積」とすれば、歴史というより経験と言うべきかも知れない。)

 この章を終わるに当たって、「大脳皮質を使った人間の脳の論理的判断は基本的な欠陥を含んでいて、それを検討せずに歴史を認識すると、その認識の中に複数個の誤認があることは、論理的に間違いない」という結論に達する.つまり、歴史認識は必ず間違っているのである.

(平成22830日 執筆)