ペリーが浦賀に来てから、アメリカばかりではなく、昔からつきあいのあるオランダ、世界の海を制覇していたイギリス、イギリスと対抗していたフランスやシベリアまで勢力を伸ばしつつあったロシアが日本を狙うようになりました。
1850年頃、つまり、今から150年ほど前は、ヨーロッパとアメリカが世界の国を植民地にして、そこからの富で豊かな生活をしようとしていたのです.
薩摩藩とイギリスが戦った薩英戦争、長州藩が四国連合艦隊と戦った下関戦争なども、日本がヨーロッパ、アメリカと戦ったものでした.
戦後の日本の教科書では、ペリー来航、薩英戦争、四国連合艦隊の強襲などについて「淡々と」書いてありまし、時には「日本の開国が遅れた」というようなことを説明されますが、このような教え方が「白人崇拝」、「日本を貶める歴史観」を育てるのでしょう.
江戸時代の「鎖国」とは、「日本は日本だけでやる」という決意で、もしヨーロッパやアメリカも同じように、「自分たちは自分たちだけでやる」という精神を持っていれば、戦争のほとんどは避けられたでしょう.
鎖国政策は究極の平和政策なのです。
・・・・・・・・・
いま、人種や肌の色によって人間を差別するのは正しくないと多くの人が思っています。でも、白人はもちろん、日本人のような有色人種ですら、「白人はなにをやっても良いけれど、有色人種は遠慮しなければならない」と考えている人が多いのです。
この写真は下関戦争で長州藩の砲台を占領したフランス軍の様子を写したものです。この戦争は長州藩が外国船を排斥しようとしたことがきっかけとなって四国の軍艦が長州藩を攻めたのですが、やや日本が劣勢ではありましたが、死傷者はほぼ互角でヨーロッパやアメリカとしてはアジアの中でも日本はなかなか手強いという印象を受けていました。
それに、戦後の交渉にあたった長州藩の高杉晋作が若いのに堂々として相手の軍艦の上で交渉に当たったので、それも白人には驚きでした。
でも、このように下関戦争を説明するのは不適切と私は思います。
・・・・・・・・・
イギリス、フランス、アメリカなどの国は日本から見ると「地球の裏側」ほど遠い国で、友好的に貿易を求めるのは良いとしても、武力で無理矢理、他国に貿易をしろというのは傲慢な話です.
でも、彼らの作戦は、このようなきっかけを作って、さらに事態をわざと拗らし(こじらし)、本格的な戦争を仕掛けてアジアの国を乗っ取るというが白人の考えていることでした。
中国の「アヘン戦争」が有名ですが、痲薬であるアヘンを買わないといって中国を攻めたのですから、数ある戦争の中でもこの時代の白人のやり方はきわめて醜悪でした。
だから、薩英戦争とか下関戦争を説明するには、まず
「地球の裏側から何の利害関係も無い日本に来て、貿易を強要し、それができないとなると難癖をつけて海軍で攻めるという醜悪な戦争でした。
幸い、薩英戦争では薩摩藩の砲台が、下関戦争では高杉晋作の交渉術によって日本は一気に植民地にならないですんだのですが、まさに弱肉強食の時代で、それを作ったのは「文化香る」と言われていたイギリスやフランスだったのです。」
と事実をそのまま説明するべきなのです。
ところで、近代ヨーロッパの文化には素晴らしいものがありますが、それはアジア人の血と汗でできあがったものでした。もし、ヨーロッパ人が言動一致、誠実な民族だったら、自分が小説や哲学、芸術で示したこと・・・人間の尊重・・・を軍事でも示したと思いますが、ヨーロッパ人ははっきりした二重人格、統合失調症ですから、それは期待できなかったのです.
江戸末期から明治にかけて、薩英戦争、下関戦争、そして江戸城の無血開城など、白人が日本につけいる隙を与えなかった、当時の緊張した日本人が、日本の植民地化を防いだと言えます.
かの吉田松陰はアヘン戦争の醜悪さを知り、どうしたら日本を救えるかにその命を捧げたのですが、松蔭が教育した松下村塾の塾生、高杉晋作、久坂玄蕃ががんばり、後に伊藤博文、山県有朋らが首相などになったこと、それに薩摩には「信念を貫く男」、西郷隆盛がいたからこそ、今の日本があると言っても過言ではありません.
・・・・・・・・・
かくして、江戸城の無血開城まで、日本の動きはまったく「正しかった」と言えるのです.そして日本の恩人は、吉田松陰、西郷隆盛だったことを、まず子供たちに教えなければならないでしょう。
(平成22年8月28日 執筆)