他人は一見、幸福に見える。でも、幸福というのは、幸福の中にいる人は一瞬に過ぎないが、その周りから見ると長く見えるものだ。
それは幸福の前に苦悩の門があり、幸福は長くは続かないからである。
その点、不幸は味がある。不幸の次には必ず幸福がくるからだ。
幸福そうな家庭生活を送っている人を見ると、うらやましく思う人も多い。連れ合いに先立たれたり、子供が思うように育たなかったり、良い縁に恵まれなかったり、家庭生活というのは川が流れるように変化し、決して安定していないからだ。
強く愛する女性がいれば、それだけで悶々と苦しむ。愛すれば愛するほど幸福だが、愛すれば愛するほど苦悶は深い。
そして、もし幸運にも彼女と結婚することができても、そのままの状態が続くわけではない。
たとえばこんなことも起こる。
人間には動物の本能もあり、人間としての心も同居する。動物の本能がでれば、獲得したメスに対してオスはプレゼントをあげることはない。メスにしてみれば急に冷たくなるということだが、これも人間が生物である限り、仕方がない。
それでは幸福な人生というのはあるのだろうか?
それに対して、偉人は知恵を授けてくれている。幸福になる方法は次の2つしかないと言われる。
第一: 不幸であること
第二: 今日一日だけを生きること
不幸であれば、不幸になることはない。なるとしたら幸福になるだけだ。幸福なときには不幸になるのを恐れて生活する。
多くの人は「最後の一日」をのぞいて、今日一日を生きることができる。今日一日、生きることができれば幸福だと感じることができれば、毎日は幸福になる。
これが偉人の回答だ。
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おそらく人間という矛盾した生き物が「幸福」というものを手に入れるためにはこの2つの鉄則を心の底から信じることだろう。
ところが、人間は、近いものと比較して自分が幸福かどうかを決める。決して「平安時代に生きた自分の前世」と比較しているのではない。
去年と比べてどうか、友人と比べてどうか・・・そんなことに悩んで35歳まできた人がいた。その人に一度、アドバイスをしたことがある。彼は私のアドバイスを聞いてから心をさばくことができ、今は幸福な生活を送っている。
私が彼にいったアドバイスは次の2つだった。
第三: 比較するならこの世でもっとも幸福な人と比較する
第四: 比較するならこの世でもっとも不幸な人と比較する
どちらでも良い。不満は一気に解消したようだ。
この世でもっとも幸福な人というのはいるだろう。たとえば、大金持ち、家庭円満、健康、どこかの偉い人・・・こんなものがすべて整っていたら(その人は決して幸福ではないが)、外から見ると「この世でもっとも幸福」と見えるかも知れない。
でも、比較しても無駄だということが分かる。
次に、この世でもっとも不幸な人と比較してみる。超貧乏、身よりなし、不治の病、誰からも気にしてもらえない・・・この場合は、本人は幸福かも知れないが外から見ると不幸に思うだろう。
就職に何回も失敗しすっかりしょげている学生に、私はこういう。
「大丈夫だよ。なんだったら、今日、名古屋の街に出てみたらどう?道ばたでのたれ死にしている人っていないよ。大丈夫だ。人間はうまくいかないときもあるけれど、のたれ死にしなければ良いときも来るよ。人間って、もともとそんなに何でもかんでもそろっている訳じゃないんだ。今までが良すぎたんじゃないの?」
学生は気を取り直して、背広を着込み暑い夏に就活にでる。
(平成22年7月20日 執筆)