2010年、73日、報道各社は名馬オグリキャップの死を次のように伝えた。

「北海道日高地方で生まれたオグリキャップは、昭和62年に岐阜県の笠松競馬でデビューし、翌年、中央競馬に移った。怪物と異名をとり重賞レースで12勝をあげるなど圧倒的な強さと人気で競馬ブームの立役者となった。引退後は種馬になり牧場で余生を送っていた。

オグリキャップは放牧中にぬかるんだ地面に足をとられて転倒し、右の後ろ足を骨折し死亡した。25歳。」

知り合いがふと私に「ウマは骨折したぐらいで死ぬのだろうか?」と聞いた。「おそらく殺したのだと思いますよ」と答えたが、NHKをはじめとした私が聞いた報道では「死んだ」と伝え、「殺した」という報道には接しなかった。

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民主主義とは「国民が主人」ということで、報道はその主人に「事実を伝える」という役目を負う下僕に過ぎない。政治家もお上と呼ばれる役人も「公僕」なのである。

だから、報道は常に事実を伝える必要がある。人間ですら、死んだときには「老衰、病死、安楽死、殺人、自殺」などは区別して伝える。自然になくなった時には単に「なくなった」と伝えることもあるが、自殺、事故死、薬殺、殺人などの時には絶対に理由を言う。

それは「死」というのはやはり人間にとっても大切なもので、それを正確に伝えることはとても大切だからだ。

よほどの独裁国家なら、元首が死んでも伝えなかったり、まして「自殺」であるとか「他殺」であるというようなことは報じない。どうしても死んだことを伝えるときには「なくなった」と短く伝える。

オグリキャップの死はどうだったのだろうか?わたしは薬殺だと思う。いくら人気のあるウマでも足を骨折したウマを世話することはできない。暴れて弱り、そして死ぬ。それが動物の運命なのだ。

でも、おそらくはそのような自然の死をかわいそうと思って薬殺したのだろう。そしてさらに薬殺を伝えると「あれ程、競馬界に貢献し、賞金も稼いだウマを骨折ぐらいで殺すのか」という批判を恐れたのか、「死んだ」と報道した。

元首以上の取り扱いだ。

まさか、NHKともあろう放送局が馬主の圧力に屈するはずもない。自主的に判断して「お馬様」の死だから国民に正確な死亡理由を示すことは望ましくないと考えたのだろう。

オグリキャップの方が国民より上であること、つまり、自分たちの評判の方を優先した一つの証拠ではないかと思う。

かくして、私は「オグリキャップは薬殺された」とここにハッキリ書くことができない。薬殺を報道したところはあるだろうが、自分は聞いていないし、これだけ多くの報道機関が「骨折で死んだ」という限りは、子供に「何で死んだの」と聞かれたら「骨折で死んだんだよ」と答え、子供がさらに「ウマは足を骨折しただけで死ぬの?」と聞かれたら、「そう」と答えざるを得ない。

その子供が、素直で勉強家で、私を信じていたら「ウマは骨折しただけで死ぬんだ」と覚えるだろう。

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オグリキャップの死は小さなことかも知れない。でも、こんな小さなことでも、報道は正しいことを国民に知らせず、自分たちで「何を伝えるのが適当か」を「主人」として選ぶのだ。

私たちは今、この日本に住んでいて、どこから本当のことを知らされるのだろうか? 私たちは主人としてなにを基準に選挙で投票するのだろうか?

今日、NHKがニュースで伝えることはみんなウソなのだろう。オグリキャップの死をそのまま伝えられない報道が、小沢さんの政治と金の問題や、温暖化で正しいことを伝えられるはずもない。

そういえば、日経新聞の記者が「これほど温暖化キャンペーンをやった手前、クライメートゲート事件の報道はできない」と言ったことを思い出す。

自分たちのもうけ、メンツの方が優先するメディアは去ってもらいたい。

(平成22718日 執筆)