教育の議論は難しい。何が難しいかというと、いつも「一」(イチ)から始めなければならないからだ。

私が専門とする物理学では、まず「ニュートンの肩の上」に学生を乗せる。そこは30年前に物理を学んだ先生でも、たったいま勉強した学生でもまったく同じ問題に同じ答えがでる。

ここで言う「ニュートンの肩の上」というのは「古典力学」ということではなく「既存の体系だった学問」という意味だ。その中に若干の疑問があっても、ほぼ「全員がそれでよいと認める理論」である。

その上で、個別のことや最新の学問を学ぶ。

学問は永遠に続くので、私たちの知識は不完全で、間違っている。だから私は講義の最後に、

「私は君たちをニュートンの肩の上にのせた。君たちはその肩の上から遠くを見ることはできるだろう。でも、その景色は本当ではない。つまり、私が教えたことは間違っているからだ。」

「なぜ、間違っているということが分かるかというと、今からわずか1000年前。平安時代の物理の先生は、私と違うことを「正しい」として教えた。今から1000年後の先生は、「かつては・・・・なことも分かっていなかったと言うだろう」と言われるだろう。」

平安時代には電気という概念がなかった。だから「雷は雲の上にいる雷神が起こしている」と教えた。現在の我々も似たようなものだ。

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ところが、教育というのは、「ニュートンの肩」が見えない。だから誰でもどこからでも議論をする。共通の真理というものがないように思える(本当はあるにしても)。

第二に、その結果として、長く教育をしてきた人と、一回も学校で教えたことが無い人が同じ知識と経験を持つという前提に立つ。

そうすると、「教育理論に詳しく、長い教師経験を持つ」という人と、「教育を勉強したことがなく、教育経験がない」という人の意見がかみ合わない。

かみ合わないのも当然でもある。

ある人の考えというのは勉強したり、経験したりすることによって変わるものだから、同じ人間でも過去の自分と今の自分で意見が違うはずだから、他人同士ならなおさら合わないだろう。

もし「教育」というものが進歩するものであれば、これまでの理論や経験で「これは正しい」というものが確定しているはずである。

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ただ、物理学とは違い、人間も変化するし、社会も変わるので、それに応じて教育も変化する。

でも、それは「人間と社会の変化に合わせて補正していく」ということであって、教育という学問の真理が変化するのではない。

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フランスのルソーやペスタロッチぐらいから近代教育学が始まって、日本では吉田松陰、伊沢修二かも知れない。

大学の教育学部では、膨大な数の教育学を学ぶのだが、それでも教育学というのがなかなか確立しない一つの理由に、教育の結果として育てられる人間像が確定しない、もしくは確定しなければならないという「妄想」があるからと思う。

教育はしばしば「政治」と直結し、「宗教、道徳」とも密接な関係になる。「どういう人間を育てるか」とか、「平和を愛する人」などという「教育外」の問題にとらわれるのである。

日教組が政治活動をしたのも、そこを錯覚したからだろうし、今、また教育に逆の政治活動や信念に基づく意見が出ている。

「若者は礼儀正しくあるべきだ」とか、「日本人は日の丸に尊敬の心を持たなければならない」というのは教育には関係がない。

その点では「環境」と似ている。環境学の基本は「このような環境にどうしたら到達するか」ということが定まったら、それに至る道を示すものであって、環境学自らが「このような環境が望ましい」と言うものではない。

たとえば「一度使った物を、もう一度、使うようにしたい」というのは社会の希望であり、それをどのように達成するかは環境学である。

もう一つ踏み込めば、「資源最小で最大の幸福を得たい」というテーマに対して、「それならこのような社会構造」というのも環境学かもしれない。

ところが、多くの人が「環境」に「哲学」を入れる。そうすると、「ものを大切にしなければならないのに、なぜリサイクルに反対するのか」というような支離滅裂な議論がでる。

「ものを大切にする」ということと、それが「リサイクルという手段で達成される」というのは違う。前者は「希望」であり、後者は「それを達成するための手段」だからだ。

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「こういう若者を育てたい」というのは希望であり、「それならこのような教育方法で」というのが手段である。「こういう若者を育てたい」という希望は時代によって変わる。

「立派な軍人を育てたい」という場合と、「融和な家庭人が理想だ」という場合もあり、また家庭というのが無くなれば「個人として自立して生きていける人間」ということになる。

それぞれに応じて、教育方法があるはずで、教育談義をするときには「希望」は固定(仮定)しておかなければならず、もし「希望」を論じるなら、教育とは切り離した方がよい。

「希望」が社会で統一できないなら、統一できるところを教育の目標にするか、あるいは統一されなくてもある程度の目標を置くかを決める必要がある。

いずれにしても、教育は「人間や社会の理想」とは無関係で、それらが決まれば「方法が決まる」ものである。

(平成22711日 執筆)