あるシンポジウムの後、私は次のような質問を受けた。
「武田先生は、なぜ、リサイクルとか温暖化で、そんなに国と違う意見を言われるのですか? 何が目的ですか?」
質問をした方は学識、人格、人柄、すべて優れた人で、だからこそこのような直接的なご質問をしていただいたのだろう。
私はこの質問をいただいて、瞬時にこれまで長年、疑問に思っていたことが氷解した。それは、私が持ち続けていた逆の質問、
「なぜ、皆さん(主に学者と報道)は環境問題で国の方針に疑問を抱かないのですか?」
というものだった。
長年、不思議に思っていたことがあった。それは私も、そして私の言動を見ている人も、私と意見を異にする人も、ともにお互いに理解できなかったことだった。
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20世紀のはじめのころ、マックス・ウェーバーという偉大な社会学者が「職業としての学問」という書を著している。私はそれを恩師から紹介され、むさぼるように読んだ。
そこには、「人間の興味としての学問」と「職業としての学問」が対比されていた。
「興味として学問」をしていた時代には、自然を観測し、解き明かし、時にはそこでわかった原理を応用して機械を作る・・・ということが行われてきた。
観測は正確に行われ、議論は真摯に進み、そして発明された機械はジワジワとその価値を認められるようになった。
ところが「職業としての学問」が誕生して以来、都合のよいデータが公表され、職とお金に関係のない議論は無視され、計画的に機械が考案される・・・それは、学問がその身をお金に売り渡したことだ。
その弊害は至る所に現れる。マックス・ウェーバーはその一場面を大学の中に求めているが、現代の大学でもまったくそのまま当てはまることだ・・・腐敗した大学。
「学問の職業化」がもたらしたことは、またの機会に十分なスペースをとって考えてみたいと思うが、ここでは、「学問の職業化」と「報道の職業化」が「環境問題」に何をもたらしたかに絞って議論を進めたい。
「職業化」とは、「お金化」と言ってもよく、学問を賃金や名誉に置き換え、学問的興味より、賃金が上がるとか、名誉が得られるということを上位に置く考え方を言う。
マックス・ウェーバーは「学問の手段化」とも解釈している。学問はそれ自体が本来の目的を持っていたが、それがお金を稼いだり、名誉を得たりする手段になったことを意味している。
「学問に夢中になっていたらノーベル賞をもらった」というのと、「ノーベル賞をとるために頑張った」というのとの差である。
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私が環境問題に疑問を持ち、学会や社会にそれを問うているのは「学問的興味」であって「別の目的」はない。
たとえば「温暖化すると南極の氷は融けるか?」ということを物理的に考えると「増える」となるのに、なぜ「融ける」と言っているのか?政府やNHKには多くの学者が参加しているのに、なぜそのようなことが言われているのか?というのは「真理」を追求する学者にとっては当然の疑問で、「何の目的で質問しているのか?」などと聞いてもらっても、どう答えて良いかわからない。
もし、「私の興味で聞いています」と言うと、「そんな暇はない」という返事が来そうである。
また「温暖化しても日本の環境は悪くならない」という結論に達すると、「温暖化が脅威だ」という人の論文を読んだりしたくなるし、疑問もぶつけたくなる。
でも、現在の日本では「温暖化が脅威」という人たちの集まりに言って質問してもほとんど答えてくれない。
あるときに「2℃上がると大変だ」と偉い人が講演で言われるので、「今の地球の気温は15℃ですが、日本にとって何℃が最適ですか?」
と質問したら、返事そのものをされなかった。
座長も講演した先生も、私の質問は完全に無視した。「2℃上がって大変だと言っているのだ。つまらない質問をするな」という感じだった。
NHKの度重なる誤報も「報道のお金化」によるものだろう。「正確な報道をいかに早く視聴者に伝えるか」という報道に興味があるのではなく、視聴率とか国会議員の印象などを通じて「自分たちの組織とお金を守るためには」という考え方だ。
何となく絶望感もある。これほど世の中が世知辛くなり、「目的がなければやらない」ということになると、話をしていても「目的」がないなら聞いても意味がない。
「儲かることだけ聞きたい」、「儲かるような方向なら合意する」という時代なのだろう。
(平成22年6月29日 執筆)