この題名に掲げた設問は私たちに多くのことを考えさせる。それを卑近なものから順次、考えていきたい。

科学的にはまず「温暖化の脅威」が存在するかを問わなければならないが、この問題は、温暖化の歴史的経過、地表気温の決定要因についての学問的検討、計算機を使った将来予測の精度、温暖化によってもたらされる恩恵と脅威を慎重に考える必要があるので、ここでは割愛する。

次に、脅威が存在するとして、それが「恩恵」を上回るものであるか、あるいは「脅威という用語は予想される状態を表現しているか」ということである。

私はここでいくつかの疑問に遭遇する。

まず、50年後ぐらいまでの温暖化は地表の平均で1℃から2℃程度の上昇が見込まれているが、気温上昇の分布は「緯度の高いところの冬」に限定される。

北方の国はロシア、カナダ、北海道などを中心として温暖化による恩恵が大きく、気温の上昇は若干の過渡的な被害をもたらすことがあっても、「脅威」という用語は不適切である。

次に、ヨーロッパ、アメリカ、日本などの中緯度の国では、気温変化はどんなに大きく見積もっても、平均気温が亜熱帯までは行かない。

従って、この地域も「脅威」という用語を使うのは不適切だろう。

実は、こうして考えていくと「脅威」という用語がなぜ「温暖化問題」に使われるようになったのか、それは「マラリアの蔓延」のようなイメージなのか、あるいは「高山植物の破壊」であるのか、歴然としないことに気づく。

亜熱帯地方でも都市が近代化され、衛生状態がよい場合はマラリアなどの疫病の蔓延はすでに克服されている。

また、地球に「亜熱帯」という場所がある限りは、そこにマラリアの蔓延が起こるなら、温暖化対策としてではなく、マラリアの蔓延自体を退治しなければならない。

また「高山植物の破壊」については、もともと生物の多様性は気象変動が原因となっていること、現在の生物の衰退は人間活動に原因している(都市化、舗装、農薬の使用、田畑の開墾)ことを考えると、温暖化による生物の損傷を「脅威」というのは不適切である。

つまり都市構造の変化、生物との共存を図る田畑の開墾によって温暖化による被害の数倍のことができるからだ。

そこで、これも正体が科学的にはわかりにくいが、「気象変動」が取りざたされる。

でも、アメリカのハリケーンは18世紀が最大で、日本もまだ温暖化が進んでいない20世紀の前半に大型台風と台風発生数が多い。

また、豪雨についても30年に一度は1週間で1000ミリ、1日100ミリ程度の豪雨は梅雨から夏にかけて起こっている。

気象変動の問題は、「単に気象の知識のない人を利用した恐怖心の醸成」を基準として科学的な議論をしてはいけないということである。

テレビで「梅雨はシトシトと雨がふるものだ。それにしては鹿児島の豪雨は・・・」という知識レベルの低いコメントテーターの発言を元に科学的な議論をするのは意味がない。

温暖化ということそのものが気象変動であるが、温暖化による恩恵、つまり気象変動による恩恵は計り知れない。

ヨーロッパ、アメリカ、日本北部、中国北東部などにおける歴史的問題は、つねに寒冷との戦いであり、温暖化は歓迎すべきである。

私が常々、言っているように、この地域では「冷害」という言葉は使われても「温害」という言葉がないのは、それを意味している。

北半球に居住する人間にとって、「寒冷との戦い」は常に厳しいものであり、優れた文化はその中で発生してきているからである。

温暖化によって、農作物は総じて豊作になる、病気は少なくなる、冬の暖房費は削減される、雪下ろしは楽になる、作物と作る時期に余裕がでる・・・など生活全般において温暖化のメリットは大きい。

つまり「温暖化の脅威」ではなく、「温暖化の恩恵」なのであり、用語が間違っている。

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さて、亜熱帯、および熱帯との関係を考えてみたい。

IPCCの推計によると、空気中のCO2が増加することによる気温の上昇は上層大気を暖め、それが海洋を熱して水温をあげ、それによって海洋付近の陸地の気温が上昇する。

従って、たとえ熱帯、亜熱帯でも海洋の影響を受ける国の影響は小さい。

問題は亜熱帯、熱帯の大陸性気候の人たちに対して、主としてCO2を多く排出している国がどのような責任を持つ必要があるかということになる。

仮に、現在の地球の気温は15℃ぐらいだが、それが17℃になるということによって、生物種としての人間が若干、北方の方に移動すると、その国際的なプラスマイナスを考慮しなければならない。

つまり、現在でも南方の国は飢餓が蔓延し、8億人の人が餓死の危険にあるとされている。

これは南方の国の単位面積あたりの農作物の収量が低いわけではない。シベリアやカナダの方が遙かに収量は低い。従って、南方の国の貧困は「温暖である」と言うこと自体ではない。

この問題は政治的国際的な問題であり、科学が正面から取り組むには若干の問題があるだろう。

また、科学は「地球の気温が変化することは望ましくない」という価値観を根拠なく持つことはできず、「自然の変動は容認するが、人工的な変動は許されない」という論も単純には是認できない。

すでに、科学は自然の変動を超える大きな変動を自然に対して与えていて、それは人間が自然の一種であるということから、「自然と人工」の区別をあまりに安易に設定していると考えられるからである。

ある生物種が地球を支配したという歴史は繰り返されていて、その種のための他の種が圧迫され、滅びるということは進化の歴史そのものである。

それがどの程度になると「過度」であるかが明確ではないと、アプリオリに「現在の状態が過度である」と仮定することも科学的ではない。

つまり、この問題もCO2による温暖化の科学的議論にはふさわしくない。

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そうなると残された「議論すべき科学的問題」は、

1)   温暖化と寒冷化の可能性についての数値を議論し、

2)   それらの影響を恩恵と損害に分けてリストし、

3)   それに基づいて、科学として対処すべき技術的課題について、もっとも実現性があり、世界の人の福利に影響の小さいもの、あるいは発展的なものを選択すべきと

考えられるからである。

寒冷化は大きな損害を与えると考えられるが、ここでは温暖化だけに限定すると、CO2の排出量を減らして気温の変化を防ぐか、あるいは気温の変化を低減する技術的手段があるか、あるいはさらに被害を最小限にする技術的方法について考えなければならない。

私は、気温が上昇すれば「海を攪拌すればすぐ冷える」と考えているが、多くの科学者が「気温低減の技術的方法」に取り組めば、解決策は他にも存在するだろう。

また、気温が上がって起こる被害が「夏の熱中症」であるとすると、涼しい場所の確保、エアコンの充実、社会生活の改善などで解決できるので、このことは産業を抑制し、個人生活を制限するより容易なのではないかと考えられる。

つまり、温暖化には恩恵と脅威があるが、脅威を取り除くために恩恵を犠牲にしたり、あるいは、脅威を恐れるあまり人間の進歩を遅らすようであれば、それは「環境によって将来を破壊する」ということになるだろう。

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150

この写真はわずか150年前の日本である。今、温暖化で100年後を議論しているが、この写真もまた現在とほとんど同じ時間のスパンにおける社会を示している。

現代社会はなぜ150年前とこうも違うのだろうか?

それはこの150年間の間に生まれた「人間の知恵」、つまり「イノベーション」によっている。もちろん、科学技術の進歩もあるが、社会システム、戦争の回避なども大きな寄与をもたらしている。

だれもが150年前に帰りたくないだろう。平均寿命は40歳を切り、毎日の生活は苦しさの連続であった。

つまり、人間の活動でもっとも大切なのは「イノベーションを信じて、イノベーションが生まれやすい社会を作っておく」ことであるのは言うまでもない。

そして、ここがもっとも大切なことなのだが、「将来のイノベーションは予想できず、従って具体的なことを指摘することはできない」ということであり、それは「必ずイノベーションが起こる」ということと論理的に矛盾しない。

これまでも常に悲観的な予想のもとで進んできた。特にいわゆるインテリという人は将来を暗く見る。それは自分の「現在の知識」についての確信があるからだ。

しかし、私はまったく違う。

温暖化の問題などと言う人間にとって必然的であり、小さな問題を人間は簡単に克服していくだろう。そのためには頭脳活動に信頼し、ウソをつかず、誠実に毎日を過ごすことのように思う。

(平成22626日 執筆)