歴史は時間を認識するものである。そして、歴史とは、人間が過去の事実を歴史として認識した瞬間の時点から開始され、現在の瞬間までの時間的幅を持つ。この時間的幅というのは何であろうか?

宇宙が誕生して同時に「時間」と「空間」が発生した。

それまでは時間も空間も無いのだから、「宇宙が誕生する前はどうだったのか」とか、「宇宙はどこまで拡がるのか」などという設問は無意味である。宇宙が誕生するまでは「時間」がないのだから、「その前」というのは存在しない。また「空間」がないから現在の空間以外の空間は宇宙にはない。

 宇宙が誕生してから140億年程度の時間が経ったと考えられているが、時間は「過ぎていく」のではなく、今の時間が「増大する時間の先端」である。つまり時間は「増えている」のである。しかし、一般人は、空間もまた時間と同じく「増えていく」ことを感じることはできない。たとえば、一般人に「昨日に戻ることができるか」と聞けば、全員が「戻ることはできない」と答えるが、ある物質を前にして「このお皿を布巾で拭いて、綺麗に元に戻すことができるか」と聞くと「戻すことができる」と答える人がいる。

 実際には、時間が昨日に戻らないのとまったく同じ原理で皿を元に戻すことはできない。しかし、この錯覚が生まれるのは、人間が認識できる「時間」が一種類であり、「空間を構成する物質」が無数であることによる。従って、上記の設問は不適切で、「このお皿を布巾で拭いて、お皿と布巾の汚れを減らすことができるか」と聞くべきだろう。お皿の汚れは布巾に移るが、拭く前の「お皿と布巾の汚れの合計」は、拭いた後より小さい。また、お皿を拭くことによって汚れた布巾を水道水と洗剤を使って汚れを落とすと、お皿、布巾、水道水の全体の汚れはさらに増大する。

 このように日常的に、時間と空間が元に戻らないということは、すでに19世紀の半ばに解明されていて、空間の膨張(創造)が何をもたらすかが明らかになっている。お皿と布巾のたとえは難しい説明を要するが、たとえば、祇園精舎の鐘の音がゴーンと響いて空間に拡散し、2度と戻ってこない現象や、桜の葉っぱがハラハラと散ると、再び桜の枝に戻ることがない事実は、空間の膨張の具体的な現象として多くの人が五感でも理解できるだろう。これを科学では「エントロピーの増大」という尺度を使って。つまり、この世には宇宙の誕生とともに、一方向にしか進まないものがあり、その一つの尺度が「時間」、もう一つは「エントロピー」であり、そのもともとの原因は空間の創造である。

 人間は若返ることができず、歴史は繰り返さない、これも空間の増大で説明できることである。つまり、宇宙の誕生による「時間」と「空間」の増大は遠い昔の宇宙の果てに起こったことではなく、現在の地球上のあらゆる細かい活動や現象を厳しく制限しており、それは「ホームを出ていった列車をもとに戻すことができない」ほど明確な現象として我々の目の前で繰り広げられている。

 歴史家岡田英弘先生が指摘されているように、歴史とは人間の認識の範囲であり、従って、「世界史」というものは13世紀にモンゴルが世界帝国を形成した後にしか、世界史というのは存在しない[i],[ii])。その意味では高等学校の世界史という科目とその範囲は厳密な意味での定義には沿っていないと考えられる。

 このことを、自然科学としての立場から見ると、人間の歴史というものは、星の歴史、無生物の歴史、人間以外の生物の歴史と異なることはないように見える。まず、第一の原則は常に時間と空間が増大しているなかで、化学反応が進行し、反応の元となる物質やエネルギーが枯渇すると終了する。

たとえば、宇宙の誕生とともに水素とヘリウムが発生したが、宇宙が膨張する速度が速すぎて、水素やヘリウムが次の反応に進む前に薄くなりすぎて衝突せず、それでしばらく宇宙は沈静化した。つまり「無くなれば止まる」という大原則であり、モンゴルの領土がユーラシア大陸の端に及べば、そこで拡大は中断する。また大航海時代に地球上の全ての海を帆船が航海すると大航海時代は終わる。筆者にはこの2つの現象は、最初が「元素」であり、大航海は元素から見ると「船と人間」という巨大なものであるが、物質は反応を始め、その反応の対象物や場が消失すると反応をやめるという一般原則が適応されているだけのように見える。

もし人間に「知恵」という物質以外のものがあれば、未開の海の大半を残したまま、「残すべきである」と判断してそれで終わるか、もしくは全ての海が探査された後でもなにか特別の航海を始めるなどの「物質の反応とは違うこと」が起こらなければならないからである。つまり「人間の歴史」というものが存在するなら、それは「人間が単なる物質の反応と異なる結果を与えた歴史」に限定されるだろうからである。

 ところで、宇宙の方は、その後、元素の揺らぎが星を作り、星の内部で炭素、酸素、ケイ素、鉄を主とする元素が発生した。やがて、水素やヘリウムが反応によって減少して、これらの元素の生産も止まり、再び宇宙は沈静化した。このときに太陽と地球が誕生している。すなわち、この世の動きは、「必然的なもの」と「偶発的なもの」がある。それはあたかも「くぼみを持った平原のくぼみに入り込むプレーリードッグ」のようなものであり、偶発的にくぼみに入ると、それが広大な草原のもっとも「深いくぼみ」であるかどうかには関係なく、その後の時間が過ぎることを意味している。人間の歴史も「必然」と「偶発」の組み合わせである。

人間の歴史を見ても、そこには偶然が充ち満ちている。歴史の書籍を見るとしばしば「必然的である」という記述が見受けられるが、「必然的」という限りは、その時に選択しうるあらゆる歴史的展開のうち、実際に起こったことがそのほかのことが起こる確率より群を抜いて高いことが必要とされる。しかし、少なくとも歴史的に起こった「具体的な」ことの多くは、偶然である。ハンニバルがローマ軍に大勝した後の戦略を間違えたことも、彼が最後になる戦いで敗北を喫したことも、個別の戦闘の結果は偶然である。ただ、時に優れた将軍がでるとか、人はときどき間違いをするとか、戦いを続けていたら必ず最後の戦いがあるという一般論だけが成立する。

 そうなると、「歴史の認識」というのは個別の歴史的事実ではなく、その事実の積み重ねが、一般の自然の原理に合致している事件と、自然の原理に反する事件を分類し、それだけを抽象的に覚えればすむことになる。そして、偶然の揺らぎを別にすると歴史的な事実が自然科学の原理原則に従っているなら、歴史学と自然科学は融合すべきであり、科学の一般法則を導き出す一つの手法と化すこともできる。筆者が歴史学者ではなく、自然科学者だからそういうのではない。歴史とは何か、歴史の認識とは何を行っているのかをできるだけ客観的に理解しておくことが大切だからである。


[i]岡田英弘、『世界史の誕生』(筑摩書房, 1992年/ちくま文庫, 1999年)

[ii]岡田英弘、宮脇淳子ほか,『清朝とは何か』「別冊環16」藤原書店、 2009