明治の文豪・森鴎外はよく知られているように、偉大な作家であったと同時に、有名な軍医で陸軍軍医総監を務めた人だった。医学や治療の方では批判もあるが、彼の文学は高い評価を受けている。そして50歳をすこしすぎた頃に陸軍を引退して文筆活動をつづけ、60歳で腎臓病で死去している。
「森鴎外と健康」というと、後に慈恵医大を設立した海軍の軍医総監、高木兼寛との「兵食論争」が有名である。高木は「脚気は栄養障害」と考え,森鴎外は「脚気は感染症」と判断した。その結果,白米を兵士に食べさせた陸軍兵士は、日露戦争で総数110万人のうち22万人が脚気を患い、約3万人が病死した。一方、海軍は「海軍糧食条例」を定め麦飯と副食を重視して脚気の患者を激減させた。この事件は森鴎外の失態だが、もともと脚気という病気は、白米が容易に得られるようになった江戸時代からで、「江戸患い」と呼ばれていた。
このことは、それまでの生活スタイルや食が変わったような時には、伝統的な考え方だけではダメで、よくよく研究して正しい方法を採らないといけないこと、その当時の最高の医師でも間違うことがあることを教えている。
ところで、森鴎外自身は白米を食べても、おかずも十分だったので、脚気になることはなかった。彼は50過ぎまで元気だったが、晩年の写真を見ても,メタボでもなく節制を旨としていた彼らしく,理想的な体型である。
一方,夏目漱石は次々と小説を書いていたから、肩が凝ったのだろう,「肩が凝る」という言葉自体、夏目漱石が作った言葉だ。夏目漱石は若くして胃を患い、当時は胃の治療などはまったくできず、熱く熱したこんにゃくを胃の上にのせるぐらいだったので、直るはずも無かった。
「秋風や ひびの入りたる 胃の袋」
という彼の句に直らない胃と自分の運命をそのまま受け入れる漱石の姿を思い浮かべることができる。小説家という職業がそうしたのかも知れないが、彼は生涯、精神的に不安定で、今で言う統合失調症の症状があったし、胃潰瘍で苦しみ,吐血もしている。
漱石は50歳で胃潰瘍を患い他界しているが、体型はなかなかスマートで決してメタボではない。メタボで無いから健康と決まってはいないが,なぜ、彼はメタボでもないのに50歳で他界したのだろうか?
この二人はともに明治から大正の時代にかけての大文豪だが、森鴎外は作家であるとともに軍医総監と言う国家的にも高い地位に昇った人であるのでなにやら豪華な家の中での写真だが、夏目漱石は一高・東大の先生だったので、まあまあ悲惨な日常を過ごしていた訳ではない。
漱石はあるいは健康で無かったかもしれないが、鴎外は間違い無く「まともな生活」をしている。そしてメタボでもないのに、なぜ早くじん臓を患って死んだのだろうか?
もちろん,いくらこの2人が偉大な文学者と言っても、日本人の健康を考えるのに、たった2人の文豪を挙げても意味がない。でも、疑問である。
彼等は肉をたらふく食べたり、体型から言っても今のような贅沢な食事は取っていない。現在,多くの識者が「理想的な食生活」とほぼ同じ食事を取っている。また、現代は階段を上らずにエスカレーターを使い、ドアーを開ける時すら自動的に開くけれど、鴎外や漱石の時代は自分の体も筋肉もずいぶん使っていた。
食事が理想的で,運動も十分・・・それでいて短命だった。なぜだろうか?
人の健康も寿命も「科学」であるが、科学というのは、相反する2つのデータがあれば「自分の好みの方を選択する」ということはできない。真の原因がわかれば1つの現象として説明できるからである。だから、体がスリムであり、日本食中心の食事で、適当な運動をしていれば、結核とかインフルエンザなどのように細菌やウィルスに攻撃されることを別にすると、長寿であるはずだからである。
もとより、2人の例をもってして日本人の平均を論じることはできない。でも、医者が相手にする患者は1人であり、健康指導するときに「あなたは、日本食を食べ、ダイエットし,適当な運動をしなさい。でも、これは平均的なことで、あなたはそのような努力をしても短命化も知れません」と言うことになる。
このように考えると、2008年に厚生労働省や一部の医師が打ち出した「メタボ制度」というのは考え方自体に問題があることが判る。
もし「メタボになると不健康になる可能性が高い」と呼びかけて、どういう生活をするかを個人に選択させるなら、統計的な傾向を示しても良い。ところが、メタボ制度のように、個人の腹の周りの寸法を測り、それをある一定期間以内に下げないと、自治体や健康保険組合にペナルティーをかけるということになると、これはまったく矛盾した論理になる。
つまり、森鴎外と夏目漱石がなぜ60歳を超えられなかったのかを十分に説明できないと、メタボの制度を強制的に進めることはできないことになるからである。