さて、4大事件(タイガーウッズ、鳩山首相、国母君、それに小宮山前東大総長)も3番目になり、そのうちのさらに国母君の「だらしない格好」事件のコメントも3回目になります。
この問題は特に多くの方からコメントについてのご意見をいただきました。それは3つに分かれます。
1) 社会人として、学生として、スポーツマンとして、オリンピック選手として、日本国の代表として、あの服装は失格というご意見。日本の多くの人の代表的な感じのようです。
2) 少しだらしないと言えばだらしないが、服装については比較的自由に考えたら良いのではないかという考え。
3) だいたい、人の服装を問題にするのがおかしい。それを言うなら偉い人はあらゆる面でシッカリしているのか、国母君だけを批判するのはおかしい、という考え方。
これまでのわたしの論評は、「学校教育」という点で、オリンピック選手(オリンピックは今のところ、国の代表という資格を持っている)があの格好で良いと言うことになると、教室で服装や授業態度の注意が難しくなる・・・難しくなってもそれが社会常識なら良いが、本当に国母君の格好は日本の社会常識か?と言う点にあった。
大学生としてでもなく、オリンピック選手としてでもなく、オリンピックの代表として日本から出発する時ではなく、国母君が普段の生活であの格好をしていたら、少しは違うことを考えなければならない。
人というのはいつも服装は自由ということはない。家の中なら下着でも良いときがあるし、友達同士ならどうでもよいだろう。でも、お葬式に派手な服を着ていくことは遺族の人に申し訳がない。それは学校教育の中でも教えなければならない。
オリンピックの代表選手として国を離れるときという限定付きの服装論議である。
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また、社会の一部に国母君のような格好をした人がいても良いということと、学校教育で「だらしない」と感じられる服装を注意しうるかというのは少し違う。
学校は「未完成の人に教育する」という目的を持っていて、さらに高等学校以上は本人の希望で学校に入ってくるのだから、「本人が未完成と思っている」ということが前提だ。
シャツのボタンが外れ、ズボンが下がっている子供に先生が、「ボタンを掛けて、シャツをズボンの中に入れてズボンをちゃんとしなさい」という指導が出来なくなるのは、本当に(真面目に考えても)日本の多くの国民の総意かということだ。
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でも、多くの方から感想をいただいたので、今回は教育とは少し離れて「オリンピック選手はどういう服装であるべきか」という問題に取り組みたい。
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人間の正義を決める方法として、かつては「暴力」だけだった。そして今日ではそれに加えて「お金」と「約束」が加わっている。
でも、人間の正義を決める方法として、もう一つ「人格」を入れたいという希望は長く人間の歴史の中で意識されているのではないだろうか。
人間の正義は、第一に人格、第二に約束、第三にお金、そして第四に暴力、の順番のように感じられる。これはわたしの私的な意見ではなく、多くの人の感覚と思う。
たとえば、女性より男性の方が力が強いので、男性が女性を自由にしてよいという理屈は「暴力が正義」だが、それはまずい。
「お金」を持っていれば何でも出来るというのも事実だが、そうはいっても、法律(約束)に背くことや、人格に反することはお金でも買ってはいけないというのが現在の社会通念だ。
そして、暴力もお金も関係ないけれど、「法律に触れなければ良いじゃないか」というのが今回の議論になる。
人格という点では国母君の人格は余りよく判らないが、服装や態度、記者会見の言葉使い、病気の友人の救済などを見ると、かなり劣るような感じだった。
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でもこのような一般的な判断も必要だが、スポーツマンとしての人格というのがある。それは「スポーツが暴力を正義とする」という特殊なものだからだ。
スポーツは人間の「知、体、情」のうち、体の優劣を競うものだ。技の要素もあるが、たぐいまれな筋力を持ち、運動神経を有していればオリンピックに出ることが出来る。
だから、きわめて単純に言うと「スポーツとは暴力である」と言える。
でも、「体」は人間を校正する上で大切なものだから、スポーツ振興は善とされる。その代わり、暴力が表面にでないようにさまざまな工夫をして、スポーツを人間の活動のうち、崇高なものの一つとして社会が取り扱って欲しいとスポーツ関係者は考えてきた。
これが日本の武士道、柔道などの「道」である。そして、朝青龍の時に問題になったが、日本では武道の達人は素人とのケンカで自分の武道を使うことを絶対に禁止している。
それは暴力の正義との一線を画すことに他ならない。
相撲取りがお酒を飲みに行けば挑発されるだろう。でもその挑発に乗らない自制心が求められてきた。
だから、日本のスポーツ界は、かつて「道」であり、いまは「体育会系」である。いずれもスポーツをする人が暴力の正義に頼らないようにする歯止めと受け止められる。
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ところが国際的には、暴力の正義を「お金の正義」に変えるという国がある。その典型的なのがアメリカであり、「ホームランを30本打ったから、来年度の年俸は2億円だ」というのがこれに当たる。
そうすると暴力の正義を持った人が、お金の正義も持つことになり、タイガーウッズになる。
今回の国母君の騒動は、彼が小さい頃からアメリカで発達した競技のプロになり、暴力とお金の世界だけを歩んできたのかも知れない。少なくとも記者会見と競技の後のコメントはそのように感じられた。
また、東海大学にどういう方法で入学したかは判らないが、勉強はあまりしていないのだろう(これも推定だが、記者会見の言動からは学力があるとは感じられなかった。そして、今回の事件があったので、東海大学はこの点も明らかにしなければならない。大学は公的な組織だから、社会的責任はある。できれば、国母君の全成績を公開することも考えた方が良い。)。
もし仮にも不正があったら、スポーツと相容れるかは微妙である。
現在の大学には「一芸に秀でた人」の入学を認めているが、それは「一芸が優れていれば誰でも入学できる」と言う意味ではなく、「一芸に秀でている人は、入学の時には若干、学力が劣っても、精神力などがあるので、大学で学力を付けることができる」という考え方である。
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スポーツが暴力から離れること、そのためにスポーツ選手は「体育会系」であり、規律を重んじ、力で正義を決めることと人間性の調和を図っていると今ままでのわたしは解釈してきた。
だから、国母君の事件はわたしにショックを与えたのであり、「アメリカの競技だから、あんなもんだ。お金を稼げれば良い」というなら、わたしはあまり日本人が参加することを望まない。
それはわたしの勝手な言い分だろう。わたしは「お金でなんでも片づける」という社会はできるだけ避けたいからだ。わたしはみんなが少しずつ我慢して、互いに気持ちよく生きていく社会が好きだ。現代の社会のように暴力やお金があれば、貧乏な人が飢え死んでも平気というのは、わたしの個人的な考えだが、納得できない。
でも、今回の事件は「お金があれば良いじゃないか。お葬式に派手な格好をしても良いじゃないか」が世論かも知れないと思わせたのだ。
(平成22年2月25日 執筆)