「学ぶ」というのは「押しつけ」ではない。あくまでも「学ぶ方」、つまり小学生とか大学生が学校をでて社会で快適な生活と人生を送るための準備をすることだ。

「学び」の中心は「社会の中で勤労を伴いながら、幸福に生きていくこと」に他ならない。

だから、教育として最も大切なのは、

「他人に対する感謝の心」

である。人間は一人では生きていくことが出来ない。

時に、気の強い学生が「自分一人でやれる」と頑張ることもあり、それはそれで成長の一場面では良いことだが、「良いよ。自分一人で野原に行ったら良い。それも人生かも知れない」と突き放すと、学生は次第に回りが見えてくる。

「僕らは便所掃除をしないから、一人前ではない」とも言うことがある。

便所掃除をしろと言っているのではないし、便所掃除だけが有意義な仕事であるとも言えない。勤労はすべからく尊く、だからこそ日本国憲法にも「勤労の義務」が定められている。

「ニートは日本人ではない」と言うこともある。これも過激な言葉だが、日本人はなぜ日本列島で生活していけるのか、それを考えさせるには役に立つ。

日本国憲法になぜ「勤労の義務」が定められているのか、もし一人として働かなければ日本はどうなるのか、一度ぐらいは考えさせるのも教育である。

・・・・・・・・・

でも、教育には社会一般とは違う特徴と、一定の制限がある。

特徴は、「自ら(または親)が未完成と感じ、「教え」を受けに来ている」ということだ。

教育問題がマスコミなどで語られるとき、「完成した人間」が教育を受けていると錯覚している場合があるが、少なくとも教育基本法で一定の制限を受けた学校や大学は、教育を受けに来ている本人が「教えて欲しい」と希望していることが前提である。

そして、教育機関が教える目的は「学問や技術を身につけさせる」のではない、「人格を形成させる」ことであり、もしそれに学問は技術が必要なら手段として学ばせるというスタンスである(教育基本法、第一条教育の目的)。

だから、

「そんなだらしない格好で学校に来てはいけない」

と教える。それは「教える」のだから、「教わる方の自由」などはない。自由がないからといって人権を侵害している訳ではない。自由が無いのは学ぶ方の希望だからだ。

「教えてください」といって学校に入る、それに応えてできるだけ質的に高い教育をする、それが学校と生徒、大学と学生の関係だ。

「だらしない格好をしていても本人の自由だ」というのはその通りで、もし社会人ならそれでよいが、学校ではそれではいけない。

・・・・・・・・・

もう一つ、学校教育の制限は「社会の常識に従う」ということだ。

もともと、学問というのは断定的なものではない。その時までに厳密な学問の積み重ねで得た確実な知識で構築される。

それと同じように、教育において「・・・をしてはいけない」と教える場合、その「・・・」は社会の常識としてかなり確定されたものでなければならない。

「温暖化でツバルが沈んでいる」と子供たちには教えることは出来ない。それはあまりにも不確実で、間違っている可能性が高いからだ。

それと同じように「だらしない格好はダメ」というのは社会の共通概念になっていなければ生徒を指導できない。

日本を代表して多額の税金の補助を受けてオリンピックに行く選手が「ズボンを下げただらしない格好」でも良いと社会が認定したら、先生は教室で上半身を裸になっている男子学生や、お尻をだしている女子学生に注意は出来ない。基準が無いからだ。

だからこそ、今回の国母君(選手と呼ぶべきか迷う)のだらしない格好は日本の教育にとって重要であり、かつもし彼が金メダルを取って、それが故にあのだらしない格好が認められたとすると、教室でも「どんな格好でも、何をしても良い。一番を取ればよい」という指導をしなければならず、教育基本法は崩壊する。

・・・・・・・・・

日本人は、どういう社会を望んでいるのだろうか?

わたしは感謝の心に満ちた、気持ちのよい、礼儀正しい社会を望んでいる。若い人もキチンとした服装と行動を取るのは難しくない。

それより、明るく、夢をもって生きていく若者が許される社会が良い。

だから、国母君はオリンピックに出ない方が良い。君があのような格好と受け答えしかできない大学生であり、それでみんなに祝福されてオリンピックにでることが出来ないなら、オリンピックはつまらないものだからだ。

服装とオリンピックを交換できるほどのものなら、補助金をもらうべきではない。

そして東海大学は「どういう教育を目指して、何を指導しているのか」を社会に明らかにした方が良いと思う。

東海大学は教育基本法を守っていないが故に、大学ではないからだ。

そして、若者があのような格好をしたい時には、それなりの理由があるというなら、教育界はそれを明らかにしなければならない。

わたしは学生に次のように教えている。

「君の魂は尊い。そして君はやることがある。その魂を守るためには、身繕い、言動などで君の魂を汚されないように、そんなことは簡単なのだから、社会から見て、立派と思われるようにせよ。そんなことで足をすくわれてはいけない。君にはもっと大切なことがあるのだ。」

でも、もしも国母君がオリンピックにでたら、私はこの4月から教えることはできなくなる。私たちにとっては教育は真剣なものなのだ。

(平成22216日 執筆)