人は挫折することがある。

・・・という表現はあまり正確ではない。より正しくいえば、ほとんどの人は挫折を経験する。その人にとって決定的な挫折のこともあれば、軽い症状ですむ人もいる。

生物の歴史からみると、人間という種は初めて生物はDNAより頭脳が勝っている生物で、毎日、ただ食べて寝てい生きるだけではどうしても満足できない。

毎日、凍えもせず、焼け死にもせず、布団の中で目が覚め、朝ご飯を食べて仕事をし、夕方を迎えて家に帰る・・・これほど恵まれたことがあろうか?

でも、あるいは成績が悪いと嘆き、受験に失敗したといってはしょげかえり、就職、恋愛、結婚、子育て、出世、嫁姑、年金・・・我々は数限りない「挫折」に苦しむ。

すべては「欲」であるが、その「不幸を感謝できない」ところが人間というものだ。

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犯罪者を許すわけではない。被害者のご家族にすまないという気持ちがないわけではない。でも、彼には彼の挫折があるのだ。それは本当は、挫折ではないけれど、彼にとってみれば克服できない挫折だったのだ。

なにが挫折と決まっているわけでもない。本人が世界の頂点を目指していれば、日本の頂点に達しても、世界で敗れれば挫折だろう。それは本人の目標の置き方と、それに対する心の持ち方だからだ。

おそらく、その容疑者は挫折したのだろう。

彼もいろいろ試みたに相違ない。空手を習って何とか今の自分を打破したいと思っていただろう。でも、人間、できないときはできないのだ。

かつて「スター誕生」という映画をみた。すばらしく、また悲しい映画だったが、挫折とは死よりも辛いことがよく描かれていた。

人間は食べて生きているだけの存在ではなく、精神的苦痛は時として死よりも辛いし、それを打破できないのは本人が一番、よく知っている。

かつて彼は大スターだった。

みんなはチヤホヤしてくれた。それで自分が傲慢になったのかもしれない。でも、今、それを非難してももう過去に帰って回復できるわけではない。自分が傲慢だったことはよく知っているが、それを取り返すことはできない。

周囲の人、特に自分を愛している人は、そんな彼を慰めてくれる。でも、慰めもまた苦痛になる。自分はその愛する人の好意に報いることもできない。もう、自分にはその力もない。そして、それも自分は知っているのだ。

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彼は絶食を続けるかもしれない。でも、それは彼の魂の叫びなのだ。

かつて大学の管理に携わっていたことがある。悪さをして警察に逮捕された学生がいて、裁判で有罪になった。教授会では「退学させろ、学生の本分は!」の大合唱だった。

でも、私は「大学=修道院」説というのを唱えてがんばった。3人が退学処分にならず、そのうち1人は立ち直って大学を卒業した。

「大学を退学させたら、彼たちはどこに行くのだ? 私たちは若者をアウトローの世界に追いやるのか。大学以外に有罪になった学生を立ち直らせるところは、広い社会といえどもどこにもない!」と私は熱弁をふるった。

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人間は悪い人を罰する。そして排斥する。でも、それは人の心に「悪」があるからだ。

だから、神は彼を許し、彼の苦しさを認めてくれるだろう。だから、私はあまり正確ではないかもしれないが、大学=修道院、といった。判っていただいた先生方も多く、そして彼は立ち直った。

過ぎたことは取り戻せない。そこで、命を失った人もいるし、最愛の娘を奪われた人もいる。そしてその加害者もまた挫折の苦しみを味わっている。

事実はまた人間の心の歪みを超えて冷酷である。

人生、朝起きてご飯を食べ、その日を一所懸命、過ごすことができればそれでよいのに、どうして人は挫折しなければならないのだろうか?

(平成211116日 執筆)