若い頃,フランス文学で私に強烈な印象を与えてくれた小説が,「椿姫」と「ボヴァリー夫人」だった.

まだ若く,世間を知らず,まして女性の気持ちや人生など判るはずのない自分にとっては,椿姫の純真な心,ボヴァリー夫人の切なさが胸をついた.

恥ずかしいけれど,若い自分は何も判っていなかった(それは今でもあまり変わらないかも知れないが).そんなとき,「人生とはこういうものなんだ.人間というのは情で生きるもののなのだ.多くの人は実はなんて詰まらない人生を送っているのだろうか!」と感じたのも,ヨーロッパの小説群だった.

長じて,研究職になり,私は研究という領域で人生を送ってきたが,その中でもある時は椿姫を演じ,ボヴァリー夫人に答えようとした.

・・・・・・・・・

ボヴァリー夫人を書いたフローベールは19世紀の小説家で,実証的な描写で注目された.小説家としての彼にとっては新しい手法は大切だったのだろう.

でも時代が変わり,150年後に,世界の裏側の日本で彼の小説に接した一人の読者が,大きな影響を受けるとは思っていなかっただろう。

描写が事実とどのように違うのか,同じなのか,まったくわからない.そこに書かれた一人の夫人のもつ心は若い私には新鮮だった.

椿姫を読み,ボヴァリー夫人に違和感を感じ,私は人間というものの一端を知り,そして,科学が示す「事実」を勇気を持って見ることができるようになった.

この小説に書かれた一つ一つの台詞は,一見して実にバカらしいものである.

「いけない、いけないことだわ、あなたのおっしゃることを聞くなんて、わたしどうかしているのですわ」

というような類だからだ。しかも,話しの筋は不倫であり,ふしだらである.さらに結末はヒ素を用いた自殺と来ている。

でも,そこに人間というものの真実が描かれている。

同じ19世紀にヘルムホルツという科学者がいた.彼は大学を退官する時に,「私の著作は30年も持たない.それに比べて人の心を描いた小説は1000年経っても色あせることはない」という趣旨のことを書いているが,本当にそうだ.

科学は,今を時代遅れにすることを望む。だから30年もたって,意味がある科学は無意味だ.

でも人間というものは変わらない.ボヴァリー夫人という小説は150年経った今でもまったく色あせず,1000年後も同じ輝きを放つのではないか,と私は思う。

そういえば,私にこの小説を勧めてくれたのは,中学校時代の平田智子先生だったと記憶している。

(平成21103()