「ゆとりの教育」を受けてきた学生の講義はイヤだ.なにしろ,遅刻,早退,携帯電話,私語は当然,その上,講義中にやおら立ち上がって教室の反対側にいる友達のところまで行き,そこで話しをしてまた席に戻る。

講義をしている私の方は,いったい,何が起こったのか?と戸惑ってしまう。

でも,私は異常に厳しい先生だから,私語をすると外にだす.でも,そのたびごとに一悶着するので実にいやな気分だ.

問題は,学生が「遅刻,早退,携帯電話,私語」などは「学生の権利」であり,注意されること自体がおかしいと思っているので,注意も難しいのだ.

と,書いたけれど,私はこの現象は「ゆとりの教育」が原因しているのではないと思う.たまたま日本の教育の欠陥が「ゆとりの教育」をキッカケにして実現してしまっただけではないかと思う.

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このような状態の教育現場にいて,私はなにを目的にして教育をしているのかが判らない.教育にはその第一歩に大きな決断がいる.

1) 国家のために教育する

2) 子供のために教育する

この2つは同じように見えて,教育現場ではまったく違う。「国家のために教育する」場合,通常,次の人材を育てようとする。

1) 最低の学力をつけさせる.それ以下は落第させる.

2) 優れた子供は国家のために,さらに磨く。

この教育の副作用として,「俺はもういいや,人の言うとおり人生を送ろう.考えるのもイヤだ」という人材を作り,格差を広げる。

もう一つは「子供のための教育」である.この場合は方法がまったく違う.

1) その子供が,自分の講義を受ける前の段階から,向上すれば良い.

2) 不合格でも,本人がそれでよいと言えば合格(終わり)にする.

3) 優れた子供には,さらに高度なことが自分で学ぶことができるようにアドバイスする。

大所高所から言えば,「国家のための教育」は,結局,「子供のための教育」になるかも知れないが,現場では講義の仕方から,成績の付け方まで正反対だから困る。

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教育基本法第一条には,教育は健全な心と体を持つ国民を育てるために,主として人格教育をするようになっている.

しかし,「ゆとりの教育」の批判から,学力重視の教育に変わることになり,文部大臣は「日本が繁栄するためには,学力が大切だ」と言うことになり,「どうも,日本の学校教育はサボっているのではないか」との噂から,全国一斉学力テストというのも始まった.

私は「あれっ?」と思った.「子供のための教育」なのか,「国家の一員として身を捧げる人」を教育するのか,方針が分かれたのだ。

法律を守るなら子供のため,文部大臣の意向に沿えば国家のためになったからだ.

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子供のために教育するのか,それとも国家のためか? 私は今日も迷いながら教室に向かう。

(平成21922()