これまで4回にわたって,1990年以後の環境問題,つまりリサイクル,ダイオキシン,そして温暖化は終末思想を政策化して,特殊な利権を得ようとする活動ではないかという疑念を述べた.そして,それらは終末であるが故に,すべて「未来の環境に備える」ということである。この流れは1972年のメドウスの「成長の限界」から出発したものであるが,はたして,人間は未来に備えるべきだろうか。また,それは論理的に考えても可能なのだろうか.

自然科学分野ではなく,社会科学の分野で未来に対する現世代の責任を論じた著述に,女流哲学者・シュレーダー=フレチェットや[i]),ハンス・ヨナスの著作などがあり[ii]),著者が中心的に勉強したのはフレチェットの論文である。

彼等の分野は一般的に「世代間倫理」と呼ばれていて,現代の世代は,将来の世代に責任があり,たとえば「資源を残しておかなければならない」とか,「回復できないほど環境を破壊してはいけない」などの倫理項目を検討している。

このような世代間倫理という概念は,哲学的,社会学的には評価されていることから考えて意味があるのだろうが,著者にはまったく重要性が感じられなかった.まず,第一に,過去の世代,現在の世代,そして未来の世代ということをどのように定義しているかが明確ではないことであった.

フレチェットは世代について一応の定義をしているが,それはあまりにも抽象的であった.また過去の世代でも,「過去の人間は全て平等だった」という前提に立っているが,歴史的に見て人間が平等であったことはなく,また前史時代の状態は明確に判っていない.また,社会や技術の変化や進歩についても記述が無く,「現在の白人の社会が標準であり,それからはずれるものは不適切である」という前提がその著作の全編を貫いている。

また,「なぜ,現世代は未来の世代に責任があるのか?」というもっとも基本的な問いに対する回答が書かれていない.このような論理展開についてはある哲学の専門家にお聴きしたところ,哲学では根源的な仮定は直感以外には示せないと教えていただき,科学者として訓練を受けてきた著者はひどくガッカリしたものだった.

そして,全編を貫く思想は,自らの倫理に従って,他の倫理観を持った人の行動を制約することが正しいと言うことであり,まさに白人の独りよがりの道徳観を世代間倫理という誰も証拠を持って否定できない形で提示しているに過ぎなかったからである。

日本においても世代間倫理,将来の環境に関する現世代の義務に関する書籍が多い.同じ民族であることからか,それらにはフレチェットの著作で感じたほどの違和感はないが,それでも「なぜ,将来の環境が現在より悪くなることが前提になるのか?」という疑問は解けなかった。

人間は未来を見ることができないが,過去なら振り返ることができる.あまり古い過去のことは現代と大きく異なるので,本著でふり返っている産業革命後の200年を考えてみると,石炭という化石燃料を使い始めた頃のイギリスでは,樹木を伐採して還元炭素を得るよりも地下にある石炭を利用した方が,経済発展にも,環境(当時は,環境と言う概念は現在とは違ったが,少なくとも森林がはげ山になることは環境破壊と認識されていた)にも良いとされていた.

1972年にメドウスが「資源は有限である」と断言するまで,人類は少なくとも形式上,資源が無限であるという前提で進んできたのだから,メドウスの170年前に資源が有限であるという前提で将来を考えるなどと言う概念自体はあり得ない.

19世紀の初頭に蒸気機関が発明され,それによっておおくの人が豊かになったが.その時に「樹木の代わりに石炭を使うと,石炭は化石資源だから枯渇する.次世代のために石炭を使うのは良くない」という考えは,当時,思いつかないし,健全ではない.

19世紀の終わりに2種類の自動車(エンジン)が将来を争っていた.一つは,蒸気を起こして走る自動車,もう一つは内燃機関,つまりガソリンを直接,エンジンに吹き込んで燃やす自動車で,これが現在の自動車である.

その時には蒸気機関車は見慣れていたが,エンジンの内部で直接,ガソリンを燃焼させるなど不安定で不可能だと考えられていたので,多くの人は蒸気自動車を支持した.

もし,その時に「どちらの自動車が良いか」という国の諮問委員会があったとすると,後にきわめて効率が悪いとされる蒸気自動車が主力をなしていただろう.しかし,自然の技術開発に任せておけば,良い方が有利になり,現在のガソリン自動車(内燃機関方式)が主流をなした.

このような過去の経験を無視して,現在のように「電気自動車が良い」と頭の中で考えて,イノベーションを信じない選択方法は技術では歴史的な経験に照らしてもあり得ないことである.

以上のように,大きな判断においても,個別の技術判断においても,人間の頭脳が未来を予想することができないのだから,次世代に対する責任を論じるには,まったく別の予測手段を考案する必要がある.


[i]) Shrader-Frechette, Kristin. S. Technology, the Environment, and Intergenerational Equity, Kristin S.Shrader-Frechette ed., Environmental Ethics(2nd edition), Boxwood Press. (1981)

[ii]) Hans Jonas, Das Prinzup Verantwortung: Versuch einer Ethik für die technologische Zivilisation, Frankfurt am Main: Insel Verlag.(1979)

(平成21年9月14日執筆)