さて,準備がある程度,整ったので,環境と終末思想に関する3つの例・・・女流生態学者,レイチェル・カーソンの「沈黙の春」,有吉佐和子の「複合汚染」,そして,女流化学者,シーア・コルボーンの「失われし未来」に共通して見られる現象を整理して考察する。

人間は古くから何かの原因で,突如として人類が克服できない難関にぶつかり,それが原因して終末を迎えるのではないかとの恐怖にさいなまれてきた.その多くは大規模な洪水,突然の巨大隕石の落下,神の怒りなどであったが,1950年以後,環境破壊が顕在化すると共に,「目に見えない化学物質によって,身の回りが突然,汚染され,終末を迎える」という新しい概念が登場した.その代表的な事件が上記の3つである.ここで示されている恐怖は「ついに人間社会も終わりになる」のか,「生態系が破壊されて生物全体が滅亡する」のか,あるいは「地球という存在自体が大爆発して無くなる」のか,それは曖昧である。

レイチェル・カーソンの場合には殺虫剤の使用を中止すれば良いのだから,それによって若干,人間の寿命が短くなり,作物の収穫量が減ることはあっても,終末を迎えることはない.自然に散布された殺虫剤の多くは数年で姿を消すので,その後に影響を及ぼすことはない.(注:化学物質は種類によってさまざまである.たとえば酢酸フェニル系の農薬には数10年以上残る可能性にあるものが認められている.)

有吉佐和子の主張は農薬による終末であるが,農薬の使用を止めればよいのだから,これも作物の収穫量が減少して世界的には餓死が増えるだろうが,それはやがて人口と耕作面積のバランスによって定常的状態になるので,終末とは関係がない.問題は,環境中で分解速度が遅かったり,あまりに使用量が多く,分解する前にその地域にいる生物を全滅させることがある.その意味では,「人間」より「人間以外に生物に対する影響(たとえばメチル水銀系農薬など)に注意する必要があるだろう.

さらに,シーア・コルボーンの場合はもともと存在しないものについての想像なのだが,仮に環境ホルモンというものが存在しても,その構造から環境中で数年以上は存在しないから,数年以内の人間を含む生物が絶滅しない限り,問題は発生しない.

このように,この3人の指摘は大きな損害を受けるのが人間としている点で,「非科学的,定性的には終末があり得るが,科学的,定量的には終末とはまったく関係のないことである」ということが簡単な説明で判るようなものである.

しかし,問題はこのような児戯に類した警告で社会が強く反応し,その中には科学的な訓練を受けた人や,いわゆるインテリ層を含むことである.人間の社会および動物としての人間に関する科学的知見が教えるところによると,人間の社会は変化に対して柔軟で,必要に応じて危機を回避したり,より豊かな生活を送るためにドラスティックに変身する。それはすでに人間の歴史が示しており,目新しいことではない.1000年前の平安時代がなぜ継続していないのか,なぜ現代では武士階級が存在しないのか,など数ヶの例を考察すればすぐに判ることである.

すなわち,貴族社会の矛盾が顕在化し,武士が力をつけてくると,平安時代は終わりを告げて鎌倉時代に入るし,交通手段が整い,社会が発展して同じ民族同士の争いは戦争という手段以外で解決できるようになると,国内の戦闘に必要だった武士という職業はその姿を消す。移動するのに徒歩より馬が便利であると判れば馬を利用して移動し,馬より自動車が良いと分かれば,自動車が利用される.人に家に行くのに事前に連絡しておいた方が便利なら,郵便が発達し,電信ができ,さらに電話になり,現在では携帯電話となった.

そのような変化の中で,常にその時代に使われていた「資源」は枯渇するが,新しい資源が使われる.また大都市ができれば,エジプト時代のナイル川のように汚染されるが,そこはやがてうち捨てられる.現在は人間が世界全体にくまなく存在し,すべての土地が汚染されていると錯覚されているが,世界で人間が自然を凌駕する形で存在する場所はそれほど多くない.面積的には世界の0.34%(300分の1の面積)にしか過ぎない.

動物としての人間の多様性,防禦なども著しく発達しており,たとえば高等動物であるラットなどの実験動物が容易にガンを発生する程度の強度を持つ放射線でも,人間の細胞をガン化させることはできない.そのラットでも,紫外線に対する防禦という点では,微生物などに対して,酵素を使用した複雑で即時に対応しうる防禦系を持っている。著者の科学的知識と経験によると,レイチェル・カーソンが驚愕したDDTを中心とした殺虫剤で人間の集団に影響をあたえることはできない.

事実,DDTの被害はきわめて局所的で,しかも微細であった.また有吉佐和子の農薬への危惧では,日本の農薬の使用量は先進国の中でもっとも多く,その量は1970年代に10倍以上に昇った。そしてその使用により最悪では20年後に社会的現象として障害が認められるというコンピューター・シミュレーションの結果が発表されているが,現実には全くなにも起こらなかった.さらに,シーア・コルボーンの指摘した性的機能に対して損傷を与えることは下等動物でも困難である.動物の生殖活動は複雑で,巧妙であり,一つの障害が加えられても,容易に代替手段が登場して,被害を回避する。そこで用いられる化学反応はきわめて複雑で,複数の反応が用意されているからである.

このように,ある科学物質が人間に対して決定的な影響を及ぼすという考え方は,人間や動物の環境に対する防禦に関する知識をほとんど持っていない無知が原因している。無知による判断とその確信はなかなか除くことができない.無知を指摘すると,本人はよりかたくなになってさまざまな理窟を持ち出すからである。また,人間が作り出す工業製品などに防御は「環境に変化に対して応じることができない防御(著者らの研究ではこれを「受動防御」と言っている)であるが,生物はそれより一段,高級な「能動防御(環境の変化に対応して防御する)」を持っている。

能動防御とは,環境の変化に対して生体がその姿や機能を積極的に変化させて,危機に応じるという方法である.ごく簡単で一般の人に判りやすい例はミドリムシの有性生殖である。ミドリムシは環境が安定して生死にかかわるようなことがなければ,単性生殖(自分一人で自分の子供を作る)をするが,環境が激変して危機に瀕したときには両性生殖で危機を乗り切る。このような生態は生物界全体で見られ,特に人間のような高等動物では,ミドリムシのように表面に出ないが,迅速に複雑に対応する.従って,人類のような生物を絶滅に追い込むことはきわめて難しい.

人間に対する化学物質に対する間違った著作物と社会の認識によって,人間以外の自然は大きな打撃を受けている。問題はきわめて複雑なので,人間のことを第一に考えるのは良いが,生物界に対してどのような作用を持つのかについての検討が必要である.私は「ダイオキシンは猛毒ではない」と言っているが,これは人間に対してであり,動物の中にはダイオキシンに感受性の高い種がいる.ところが「人間に対して猛毒だ」と間違ったことを前提にすると,ダイオキシンの正しい判断と自然の保護は絶望的になる。

(平成21年9月5日 執筆)