タバコの忌避運動は,最初に「タバコを吸うと,吸う人の健康が損なわれる」ということで始まった.タバコにはストレスを除去して病気を治す効果と,タバコに含まれるタールなどがガンを引き起こすという二つの作用がある.
このどちらがより強い効果を持つかはまだハッキリしていないし,また個人によって健康に対する効果が異なる可能性が高い.また,タバコを吸うのは強制されることは少なく,ほぼ個人の自由である.自由にタバコをすって本人が病気になっても,それはその本人の問題であり,特に他人が制限するものではない.
たとえば,辛いものが好きな人は高血圧になり,甘いものが好きなら糖尿病になる.牛肉ばかり食べているとアルツハイマーになると言われ,自動車に乗れば交通事故の危険性がある。タバコに近い嗜好品であるお酒はさらに状況が明白である.
お酒を飲むと肝臓が痛み,時に酔っぱらい運転で人の命を奪う凶暴性を持つこともある.またそこまで行かなくても,酒癖の悪い人というのはかなりの数がいて,迷惑を受ける人は多い.
しかし,それらは全て選択の問題であり,本人がチョイスするのが望ましいとされている.
このようなことから,初期の禁煙運動は暫くして,「健康に悪いということは,本人のことだから」という反論が強くなり,運動は行き詰まりを見せた。
そこで,次に,ラットの気管を開き,そこにタバコの煙を長時間,吹き付けるとガンが発生したというモデル実験の結果(副流煙の効果)が注目された.タバコを吸う人の健康は本人が注意すれば良いが,タバコを吸う人の横にいる人がそのとばっちりを受けるのは我慢できないと言うことである.
さらに,この話は発展して「主流煙(タバコを吸う人の肺に入る煙)より副流煙の方が害が大きいということが言われれるようになる.
ただ,私はイギリスの論文で,タバコを吸う人に対して,タバコを吸う人と一緒に生活をしている人の危険性は40分の1という報告を見たことがあり,副流煙の方が危ないという実験データはまだ認めていない.しかし,一般的には,かなりの数の人が副流煙の危険性を信じている。
主流煙ではなく,副流煙ということになると,本人の問題から「ある人の行為が他人に被害を与える」ということで規制しうるようになるが,私は科学的にはどうも納得できなかったし,医学の専門家である養老孟司先生も副流煙の危険性について疑問を呈しておられる。
このような状況の下で,2009年に神奈川県知事が「海水浴場でのタバコ禁止」を打ち出した.海水浴場というのは一般的に風が強く,場所も広いので,副流煙が他の海水浴客に影響を及ぼすことはほとんどあり得ない.だから主流煙,副流煙のいずれも規制の理由にはならない.
まったく規制の理由にならないものを「知事だから」規制できるということになると,知事がお殿様になり,現代の社会体制のもとでは不適切である。
この問題についてはネットを通じて,多くの方と情報を交換し,意見をお聞きした.その結果,タバコの排斥運動は運動自体に「建前と本音」が入っていることが明らかになった.
主流煙,副流煙の有害性の問題は建前であり,この問題を研究してもタバコの排斥運動には関係が無いことを理解するに至った.
すなわち,タバコの忌避運動の真なる理由は,1)汚らしい,2)火災の危険が高まる,3)タバコの煙が臭い, 4)タバコを吸っている人は自己中心的な態度をしている,5)一回イヤだと思ったら,ますます憎くなる,ということのように感じられた.
禁煙運動の全ての人が上のような理由ではなく,特に医師の方などで真剣に肺がん撲滅という観点からタバコを吸う習慣を止めさせなければとお考えの先生もおられたし,また教師の中には「青少年がタバコという誘惑に晒されたときに,それを我慢することが大切だ」という教育上の理由を挙げられた方もおられた.しかし,全体としてみれば,
第一段階の建前(表面から見えるもの):主流煙と副流煙の発がん性
第二段階の建前:汚らしい,火災の危険が高い,ニオイが不快
第三段階に隠れているもの: 喫煙者の自己中心的態度.時間が経つとますますイヤになって来るという心理状態,
という構造のようである.
確かにわたしも,タバコを吸う人は灰はそこら辺にまき散らすし,吸い殻の始末はしない.吸い殻が下手に水に浸かっていたら,汚らしい色をした水を見なければならない.おまけにタバコを吸う人がいなければホテルに泊まっても火災の危険はずいぶん減って安心して宿泊できるだろう。
かつて戦国時代にタバコが禁止されたことがあった.この禁止令は後にタバコの栽培が奨励され,産業,つまりお金になるようになったので,廃止されたが,火事の心配で禁止されたことは日本の歴史にも見られる。
著者は,ダイオキシン,環境ホルモン,PCB,洗剤,大麻のような社会が忌避するもの,あるいはゴミ,温暖化のようにやや物理的なものまで,排斥運動をしている人を見ていると,最初は大した反感を持っていない人でも,運動が長くなると,社会的にも引くに引けなくなり,そのうちに「俺が言っていることで,これほどまでに一所懸命,運動しているのになぜ聞いてくれないのか!」といういらだちをお持ちである。
おそらく,タバコというのは人口密度が低く,社会がノンビリしている時にはさして問題にならないのだろうが,現代社会,特に都会では毎日,人と体を接するようにして生活をしている.その時代に,灰がでて,ニオイがきつく,さらには火災の危険性のあるようなものはすでに存在できないのかも知れない.
社会があまりに混んでいて,そちらが問題なのだが,東京を解散するわけにもいかないので,タバコの方にご遠慮いただきたいという気分だろう。気持ちは分かる。その気持ちをタバコを吸う人も判ってもらいたいとも思う。
禁煙運動は健康運動ではない.人が混み合ってきたときには「礼儀」としてタバコを遠慮するというのはどうだろうか?
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私は長くアイヌの研究をしてきたが,アイヌはタバコをとても大切にする.
彼等は戦争をせず,お祈りをし,自然に感謝し,決して自然を壊さない.狩猟民族であるが,獲物が不足しても隣村を襲うことはなく,自分がひもじさに泣きながら膝を抱える。彼等のお祈りに参加すると,アイヌが和人(今のマジョリティー)より人格的に優れていることを感じる。
その民族はタバコを愛していた.タバコは現代の日本人の多くの人にとって決して心地よいものではない.そこに現代社会のひずみというものがあるのだが,タバコを吸う人も吸わない人も,タバコがイヤになるのは現代社会のひずみなのだということを心得て,憎み合わず,共に手を携えて,むしろ「ストレスのない社会」を目指し,結果的にタバコか,タバコを忌避する運動が必要ではないようになって欲しいものである。
(平成21年9月5日 執筆)