ときどき,私が「ダイオキシンはほぼ無毒です」と言うと,「ケシカラン!」と罵倒されたり,「もう少し丁寧に言えっ!」と怒られたりする.
日本で一人の患者さんも無いのだから,「毒物」というのは無理なような気がするが,ダイオキシンとなると日本人は何で,そんなに感情的になるのだろうか?
マスメディアも,人体にたいするデータが出ていないときに,あれほどダイオキシンが猛毒だと報道したのだから,訂正報道をするぐらいの勇気が欲しい.それが「報道の魂」というものだ.
「訂正報道をしなくてもよい」という意見には,「WHOにこう書いてある」などというのがあるが,反論にはならない.WHOは学問を扱う機関では無いし,事実を報道するのがマスメディアというものだからだ.
その意味で,「ダイオキシンが人々に不安を与えている原因」はまさに「科学の力の弱さ」にある.いまや科学はすっかり社会や国連,環境運動家の下に敷かれている.
でも,ダイオキシンに関係に無い人に大きな被害を与え続けている「ダイオキシン幻想」もそろそろ科学が登場して,その幕を引いた方が良いから,ここで,少し丁寧に説明しておきたい.
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【データがそろった後の,和田教授の結論】
東京大学医学部の和田教授(元)は2001年1月の学士会報に「ダイオキシンはヒトの猛毒で最強の発癌物質か」という論文を発表された4)。 著者の見るところ,この論文がダイオキシンに対する科学的,社会的な判断をする場合のもっとも優れたもので,それ以後,和田論文を覆すような有力な論文は出ていない。
和田教授は,この論文の書き出しに,
「ダイオキシンは,環境ホルモンと並んで,新しい環境汚染物質として,最近では毎日のごとくマスメディアに登場し,必ず“猛毒で発癌性の”という枕言葉がつけられ,人々を不安と恐怖に陥れている。」
と,まず,ダイオキシンを巡る社会情勢についての見解を述べ,続いて,
「猛毒で発癌物質という言葉からは,少し舐めただけでたちまち人は倒れ,また,やがては癌になって死に,人類は滅亡してしまうことを想像させる。本当にそうであろうか。」
としてこの論文で明らかにする概要を示している。 以後,和田教授の論文を中心として論文の主旨にそって解説を加える。
【騒動の始まり】
まず,ダイオキシン騒動の元となった論文の表を表に示す。
この表が示された論文は1960年代から1970年にかけて行われた動物実験に基づくものであり,これに続いて,1978年にはKocibaらによる総まとめが行われた5)。最初は,ベトナムの枯れ葉剤作戦や農薬製造などのいわば特殊な条件で発生する化合物と見られていたが,その後,焼却炉などからも検出され,さらに母乳にダイオキシンが含まれていることがわかって社会問題になった。また,日本では「ダイオキシンは青酸カリに比較して64000倍の毒性を持つ」と言われたが,この数値はモルモットの実験について表の下に付けられた注釈に書かれていたものだった。ダイオキシンが「史上最強の毒物」に仕立て上げられた経過は実にミステリアスであり,まったく通常の自然科学の道筋とは異なる。
このような動物実験と並行して,過去(15から50年間)にわたって高濃度でダイオキシンに接した34万人の人の疫学調査が行われた。 まず,単純な人の死亡率という点では,34万人の疫学調査では「ダイオキシンに高濃度で触れていた人と普通の人の間に格別の違いはない」という結論になった。 和田教授の論文では,これについて,
「これらのヒトに関するデータからは,ヒトに対してダイオキシンが猛毒であるというイメージはない。」
と断定的に記載されている。
【発がん性についての報告】
次に発癌性については,国際癌研究機構(IARC)は34万人の調査を行って,1998年に研究結果を発表している。その結果,ガンの疑いのある五つの調査結果から,TCDDのみが発癌性がある可能性を指摘している。確かに次の表にはTCDDの発癌性を示す結果が掲載されていて,IARCはダイオキシンの「高濃度長期間暴露者の相対リスク」は1.4倍としている。
これはダイオキシンの高濃度暴露者(普通人の100倍から1000倍以上を20年以上)の場合,一日タバコ一本程度を吸う人と同程度である。また,飲酒とは直接的な比較は困難であるが,一般的な薬剤による規制値の基準を適応すると,1ヶ月に日本酒を1合程度と同程度の危険性と見なされる。すなわち,食品や薬品など人間の体とある程度,反応する物質は若干の発癌性や毒性を有していて,日常的に使用するお醤油や砂糖なども,摂取の程度によって障害をもたらす。
このことを考えると,自然科学者であれば定量的な判断が可能なので,「普通の人の1000倍近い濃度を20年間以上に渡り接して,1日タバコ一本程度の発癌リスク」という化合物の毒性を「史上最強の猛毒」というのは不適切であることは論を待たない。仮に,多くの論文の中には若干の発癌性などを認めることは往々にしてあるものだが,それらの化合物をすべて「史上最強の毒物」とすると,私たちは人生を送ることができなくなり,何も食べることができないので,疾病にかかる前に餓死することは間違いない。
【セベソ事件とベトナム枯れ葉剤】
IARCの整理は動物実験や人間の暴露を中心とした直接的,医学的な解析であるが,そのほかに,事故や戦争などの特殊な例を少し詳しく見てみたい。その一つがイタリアのセベソの問題である。
1976年にイタリアの小都市セベソの化学工場(農薬製造)で事故があり,工場から飛散した農薬および農薬中に不純物として含まれていたダイオキシンが町に降り注ぎ,多くの住民が高濃度のダイオキシンに暴露された。飛散したダイオキシンの量は5kgから15kg程度と推定され,それが数万人の住民にかかった。当時,動物実験で知られていたダイオキシンの毒性を体重換算すると,約2000万人分の致死量とされ,その風評でセベソの町は大混乱に陥った。
しかし,初期の段階で著者がヨーロッパのインターネットから得た情報では,犠牲者はゼロで,目立った疾病も見あたらなかった。当時,日本の報道ではセベソの事件で多くの動物と人間が被害を受けて,まるで原爆を投下された広島のような町になったような印象を受けていたので,健康診断結果を報じるインターネットの情報に内心ビックリしたことを覚えている。ところで,セベソの事故から10年たった時点でのセベソの住民のガンの発症率を「標準」,つまり普通のヒトの発症率と比較したデータを表に示した。
地域はA, B, Rに分かれていて,これは事故後にダイオキシンを浴びたレベルによって地域を分類したものである。 Aの地域に居住していたヒトがもっとも多くのダイオキシンを浴びていて,血中濃度はR地区のヒトに較べて1000倍にもなっているが,癌の発症率は標準の19に対して14と少し低目の数字になっている。この傾向はB地区でも,R地区でも同じで,合計して37000余の市民がこの事故でダイオキシンに接したが,人口が37000余のヒトの標準の癌の発症率が999名に対して,セベソでは891人であった。つまり,若干,少なめということがわかる。
著者はこのデータを見てダイオキシンの毒性を自分の本に書くのを少しの間,止めたのである。日本の報道では「セベソで大きな被害が出た」というのが言わば常識になっているのに,科学的データでは,急性毒性はもちろん見られなかったし,発癌性ですら低下の傾向にあったからである。このデータを知っていて「ダイオキシンは猛毒だ」と書く新聞記者がいたとしたら,それは取材の自由を武器にして自由に記事を書くことのできる権利を持っている人にとっては,決してしてはならないことである。
また,科学は教育とも密接に関係している。 セベソについてはダイオキシンの薬害に関する映画が作られ,それが文部科学省の指定映画になって,日本の多くの学校で児童や生徒がこの映画を観た。しかし,映画の製作にあたって,ほとんど現地ではロケをしていないことが後に判明し,また,その映画で表現されている内容は「事実とはほとんど関係がない作り話」だったのである。
大人の先入観や利権がもとになって子供に間違った情報を教え込むというやり方は,歴史的には多く見られ,それが無謀な戦争に駆り立てたという批判が強かった。そこで,敗戦後には新しい教育体系や方法が模索されたのである。それが21世紀初頭の日本の環境報道では,また大人の都合で子供に間違ったことを教えることが頻繁に見られるようになり,特に環境問題では著しい。
ダイオキシンの事故に類することで社会的な問題になった事件としては,上記のイタリアのセベソで起きた工場事故の他に,世界的にはベトナムの枯れ葉剤の中に含まれていたダイオキシンによる奇形児の発生の報道があり,また国内ではテレビ朝日のニュースステーションの所沢ほうれん草事件(誤報)や,国内の焼却炉周辺のダイオキシン濃度の騒ぎがあった。
ベトナムの枯れ葉剤については,すでに拙著「環境問題はなぜウソがまかり通るのか」に詳しく書いたので,ここでは詳述をさけるが,もっとも重要なデータとして,ダイオキシンが大量にまかれたと言われるベトナムの森林と,除草剤としてダイオキシンを含む農薬が使用された日本の田畑の平均的なダイオキシン濃度を比較した表を後に示す。
数値は別にして,ベトナムの場合は軍事的に森林にダイオキシンを含む枯れ葉剤を散布したとされているが,どちらかというと人のいない森林に投下された。それに対して,日本の場合には主食のイネを栽培する田んぼに除草剤としてダイオキシンを含む農薬を使っていたのだから,その危険性は極めて高かった。
【書籍と論文】
それでも日本人にダイオキシンの障害者が出なかったことをどのように解釈するべきかという問題があり,現在のところ「ダイオキシンの毒性が弱いか,ダイオキシンを無害化するシステムが体内に整っている」と解釈され,具体的なレセプターなども発見されている。
ダイオキシンの人体に対する冷静で科学的な研究としては東京大学の渡辺正先生の「ダイオキシン神話の終焉」が一般的であり,学術論文としては,ダイオキシンの摂取量について,Wuthe, Ewers, Schrecter, Johansenらが1996年に整理をし[i],[ii]),生殖毒性については,Pohl, Cummings, Henrikseらが[iii],[iv],[v]),ヒトの発癌性については,Bertazzi, Collins らが詳細な論文を発表している[vi],[vii])。
これらの報告を見ると,ヒトに対するダイオキシンの多くの論文が1996年以後に出されているのに,日本におけるダイオキシン報道は1995年から1996年にかけて行われた。このような時間的な経過を見ると,ダイオキシンに関する日本の多くの報道は「科学的な整理(学術論文)を読まないで報道された」ことが明らかである。
この項を終わるにあたって,「なぜ,ダイオキシンが猛毒だと勘違いしたのか」ということについて触れておきたいと思う。誤解の元となったのは表に示した動物に対するダイオキシンの毒性についての結果である。表は毒性をLD50で表したもので,LD50とは,体重1kgあたりどの程度の化学物質などを与えると,与えた動物の50%が死ぬかという数値を示している。 表の上の方はダイオキシンの毒性(LD50)をモルモットからハムスターまで示しており,下半分はヒトに対するダイオキシン以外の毒物のLD50が示されている[viii])。
このデータは,ダイオオキシンが動物に対して強い毒性を持つことを示した者であるが,第1の問題点は,「動物ではダイオキシンの毒性」,「ヒトではダイオキシン以外の毒性」を一つの表で示していることである。
このような比較を俗語では「テレコ」といって大学では学生にきびしく指摘するところである。 つまり,あたかも比較できるように表現しているが,その実はまったく比較できない二つの現象(この場合はダイオキシンについては人間以外で,人間についてはダイオキシン以外)を並べているだけということである。せめてウサギぐらいのところに人間と同じテトロドトキシンや青酸カリなどを書いておけば少しの類推もできるし,それよりフグに対するテトロドトキシン(フグ毒)の影響などを併記すれば若干の比較が可能になる。
実はこの表のトリックに気がついたのは,和田論文を読んだ後であった。つまり,著者は和田論文に接する前までは「ダイオキシンは猛毒なのかな?」と思っていたので,この表のトリックに気がつかなかった。そして,セベソの患者の発生状況や,和田論文で「もしかするとダイオキシンの毒性は弱いのではないか。でも,猛毒というデータがあったはずだ」と調べてみて,この表のトリックに気がついたのである。
ダイオキシンは人間に対してデータがないので触れることができないのは確かである。また,動物では実験値があるので示すことができる。したがつて,データとして間違っている訳ではないが,せめて表を二つに分割していれば誤解は防ぐことができたかもしれない。
【動物の害との関係】
ダイオキシンについて,もう一つの問題は動物の種類による毒性の違いをどのように評価するかという問題である。 表にも示されているように,モルモットのようなダイオキシンに敏感な動物では,最低値で0.6μg/kg-weightときわめて毒性が高いことが分かる。人間に対する毒性と比較すると,言わば「テレコの比較」ではあるが,青酸カリが3000であるから,ここから「ダイオキシンは青酸カリの6000倍」というようなコピーが生まれてきた。しかし,ダイオキシンは,同じLD50でハムスターの上限では5000で,モルモットと較べてその比は8300にもなる。
モルモットとハムスターという動物は,動物学的な分類はともかくとして,現実的にはほとんど見分けがつかないほど類似した種である。この二つの種の間の毒性に8300倍もの差があることをどのように解釈すべきか,科学的には今後の研究に待たれるだろう。すなわち,一般的に青酸カリなどは,鉄の有機錯体の形成に影響をあたえるので,鉄で酸素を運搬して細胞内で燃焼する仕組みを持つ動物に対して共通的に作用することは理解されるが,毒物の作用機序はそれほど単純ではない場合が多い。特に,内分泌系など動物の体の構造や代謝によって影響の違うものについては,動物の種によってどの程度違うのかという基本的な知識と比較する必要がある。
(とりあえず,これで第1回をおわり,第2回で完結する予定である)
(平成21年7月1日 執筆)
8 J.Wuthe, el al., “First data on background levels of non-ortho and mono-ortho PCBs on blood of residents from southern Germany”, Chemosphere, 32 (1996) 567-574
9 A. Schrecter, et al., “Dioxins and dioxin-like chemicals in blood and semen of American Vietnam veterans from the State of Michigan”, American Journal of Industry Medicine, 30 (1996) 647-654
10 H.R.Pohl, and B.F.Hibbs, “Breast-feeding expsure on infants to environmental contaminations”, Toxicol. Industr. Health, 12 (1996) 593-611
11 A.M. Cummings et.al., “Promotion of endometriosis of TCDD in rats and mice”, Toxicl. Appl. Pharmacol. 138 (19969 13-139
12 G.L. Heriksen, et. al., “Serum dioxin, teslosterone and gonadotropins in veterans of operation ranch hand”, Epidemiology, 7 (1996) 352-441
13 P.A. Bertazzi, et. al., “Dioxin exposure and cancer risk; A 15 hear mortality study after Seveso accident”, Epidemiology, 8 (1997) 646-652
14 J.J.Collins, et. al., “The mortality experience of workers exposed to 2,3,7,8-TCDD in a trichlorophenol process accident”, Epidemiology, 4 (1993) 7-13