温暖化について,あまりにも情報量が多く,混乱している。そこで少し整理をしてみたいと思う。

温暖化というのは「今,起こっていること」ではない.兆候はあるかも知れないが,何処かの国で大きな被害が出ているという事ではない.将来,環境が破壊されるかも知れないことの一つである。

これまでの環境被害は「患者がでた」とか「空気が汚い」という事実だったから「原因はなにか」と「どうすれば良いか」だけだったが,その点で温暖化はややこしい.

温暖化は「科学」の問題である.つまり,将来の事だから,事実認識には「太陽活動,地球の熱バランス,大気の保熱作用,気象状態,生物と気象,海洋と大陸,極地の影響,古生物学・・・」などの膨大な科学の知識と解析能力がいる.

ところが,同時にこの問題は日常生活に深く関係している。そこで,「判断するに必要な高度な科学の訓練を受けていない人」が判断しなければならないという根本的な矛盾を生じる。

このような場合,専門家が科学的事象について多くの人が分かるように解説する必要がある.特に日本は民主主義なので,最終的な判断は国民がする.そして国民のなかで「判断するに必要な高度な科学の訓練」を受けているは少数なので,解説は絶対に必要なのである。

一つの方法が「NHK方式」である.ここではNHKの批判の必要は無いが,具体的な例なので,分かりやすい。

NHKは科学の専門機関では無いから,みずからは専門家として解説する力もないし,能力もない.しかし放送業として放送法にもとづいて,事実を正確に伝えることと,反対論がある場合はバランス良く伝えることが求められている。

しかし,NHKは理由は不明だが,温暖化という科学の問題について自らが判断し「明日のエコでは間に合わない」というテロップを流している。

思想信条をもっぱらにする宗教団体なら良いが,報道機関としては成立しない.つまり,「NHK方式」というのは科学的事実を思想を訴えているので,NHKは宗教団体となったことを意味している(宗教は人間にとってとても大切なことだから,宗教団体は立派だが,NHKが突然,宗教団体になって貰っては困るという意味).

でも,NHK方式の人は現代の日本に多い.つまり「自らは判断するのに必要な高度な科学的訓練を受けず」,「みずからの判断基準を示さず」,そして「温暖化について強い思想を述べる」という場合である。

このような方式は,「権威(IPCCか政府)を信じる」とか,「特定の人や機関を信じる」ということで成立する。つまり,この場合も科学ではなく,宗教や政治なのである.

温暖化が科学的なことでなければ,政治や宗教の手続きは通常だが,相手が科学なので,科学的手法に従って判断しなければならない.

科学は客観的なものなので,それが事実として確定するまでは「数多くの考え」があるものである.定説が固まるのは理論構築がよほどシッカリした場合以外は,「結果が出てから」である.

このことをヘーゲルは「ミネルヴァの梟は夕暮れに飛翔する」という言葉で示したが,科学を業とするものは当然の前提でもある.

温暖化の理論はシッカリしていない.個別の研究者が格闘している最中であり,また,温暖化の影響や対策となると,多方面の科学が関係するので到底,すぐ結論がでるものではない.

個別の研究者というのは,自分の研究を「正しい」と主張する.それは当然のことで,精神病でもない限りは「間違っていると思っていることをする」ということは希だからである。

だから,論理的には「研究中のことを研究者に聞いても意味が無い」ということになる.これは温暖化にはじまったことではなく,これまでの科学的なことがらはほとんど研究者は「一般の人が判断するところ」には登場しない.

研究者は社会に対して責任は持たない.ヒコーキが研究されているときにはついらくしてばかりいるヒコーキを「すばらしいものだ」と研究者が言っても良いからであり,社会がまだ「安楽死」について結論を出していないときに,医学者は安楽死の研究(人間に対する実施ではなく)が許される.

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科学について社会に責任を持っているのは,大学教授などの教員,特定の資格を持った専門家(技術士など)である.社会に対して責任ある解説ができるためには次のことが必要である.

1) 普遍的な科学的原理に従っていること。

2) 長期間,高度な訓練を受けていること。

3) 不特定多数に対して責任を持つこと。

4) 身分が保障されていること.

5) 特定の利害関係を持たないこと.

6) 何らかの社会的な認知を得ていること。

このことを理解するには「他人の体を傷つけても傷害罪にならない外科医」を考えればすぐ分かる.外科医はすべての要件を整えている。

科学の解説については,大学教授や技術士は1)から6)を備えているが,大学の准教授や高等学校などの教員はやや制限がある.それは,「勝手なことを言うと教授になれない場合」とか「校長の査定がある」とかいうように社会が制度を変えているので,せっかく解説の力のある人が制限を受けているからだ.

理解が難しいからも知れないから,もう一度,関係を示そう。

【科学的事実や改良 → 研究者 → 解説者 → 国民】

ということになる.科学的事実や改良を研究者は自由にできる.でも,研究をするには何処かの機関(会社など)に所属し,そこから給料や研究費を貰うことが多い。そうすると,要件5)から外れる。

また,その人が外部に自由な発言ができない場合(サラリーマン技術者・・・私もかつてはそうだった),要件4)からはずれる。だから,現代でも会社の人が解説すれば,多くの人は「それは会社を代弁しているから」といってその枠内でしか理解しない.

従って,研究者は発言できないし,国民としてみれば科学のことは分からないということになる.

そこで,近代国家は「学問の自由」と「言論の自由」を認め,さらに「資格」などをもうけてこの欠陥を埋めている。医師や弁護士,技術士,学校の先生などは「国家資格」によって社会で認知され,憲法で保障された自由によって発言が可能になる。

大学教授だけは少し別で,伝統的に「大学の自治」が認められ,その教授会で教員としての資格が認められれば,社会的な資格と認定される.これはヨーロッパの伝統から生まれてきたものである.

大学教授は「不特定多数」に責任を持つので,個別の大学生(お客さん)が「授業料を払っていて,優を希望しているから合格させろ」と脅迫されても,従わない.お金を出して貰うお客さんの言うことを聞かないのも専門家の特長である.

このように,「科学的に温暖化を解説する」というのは,そのことに「特別な利害関係を持たない大学教授などと技術士など」に限定される。このことを,大学教授である私が自分が有利になるために言っているのではなく,これは国民が合意していることで,私が委託を受けていることでもある.

一方,「言論の自由」があるから,利害関係者でも,国立研究所の研究員でも,NHKでも,主婦でも,発言は可能であるが,その発言は「日本社会が認めた科学の解説」ではなく,「個人の意見」もしくは「団体の見解」となり,社会的な意味は持たない.

つまり,医師免許の無い人が包帯を巻くようなものである.

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一方,科学的なことを公的に解説できる資格をもった大学教授や技術士にはある義務がある.それは,個人としては「自らの利害とは関係なく,科学の解説をする」ということであり,「継続的な研鑽を積む」ことであり,さらには「頻繁に相互に意見交換をして,一般の人に対する発信に紛れがないようにする」という事である.

現在の日本の大学教授や技術士を見ると,「継続的な研鑽を積む」というのは良いのだが,「利害」と「意見交換」は著しく不足している。

専門家は大学や学校,社会で未来のある若者や民主主義のもとで判断を迫られる人に教えるが故に,責任が重く,お互いに積極的に議論をして,新しい情報を仕入れ,間違いを直しておかなければならない.

この点で,私も反省しきりである.なんとかディスカションをしようと思っても,時には「国の方針と違う」といって経費を絞り上げられたり,時には「売国奴!」と罵倒されたりする。

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これまで科学と言うのは専門家だけが知っていれば良かった.社会は科学者が提供するさまざまなものをショーウィンドウに飾り,好ましいものは社会に導入してきた.でも,温暖化のように高度な科学の知識が必要で,しかも世界規模であり,それでいて個人の人生やお金を支配することが出てくると,「いったい,どのように扱えばよいのか。本当に科学的なことを解説する権利のある人は大学教授と技術士だけか?」を考えなければならない時代が来た.

「他人の体を合法的に傷つけることが許される医師」と,「科学のことで,他人の生活に犠牲を強いることが許される専門家」とはなにが違うのか,それを問わなければならない.

(平成2169日 執筆)