人間社会というものは,これほど多い小説でも書ききれないほど複雑で興味深い.そこには「本能が壊れた動物としての人間(岸田秀)」という表現がぴったりの場面が多く見られる.

刑事訴訟法442条の但し書きが適応されて,最高裁判所で刑が確定している足利事件の受刑者が,再審開始前に刑務所から釈放された.釈放したのは裁判所ではなく高等検察庁だった.

裁判に国民の参加を求めている今,二つの事が必要だろう。

1) 裁判の内容を国民に開示すること.

2) 常識的には不可思議な法律を専門家がよく説明すること。

刑事訴訟法は人間の長い訴訟の歴史の中で,徐々に作られてきたもので,そこには人間の欠陥(刑事事件の発生)とその現実的な解決策が示されている.

でも,刑事訴訟法442条は到底,社会の常識では考えられない規定である.

裁判が始まって検事が「犯人だ!」と言い,弁護士が「犯人ではない」という.互いに心の中はどのように思っているかは別にして,このように二つの見方を徹底的に示すことによって,人知では推し量ることができないこと・・・本人が真犯人かどうか・・・の決定を裁判官がするというのが裁判制度である.

そして判決が下されたら・・・日本の場合最高裁判所の判決が下されたら・・・容疑者は受刑者に代わる.判決のあとは「国家が裁判所の決定を受けて受刑者の管理をする」とばかり思っていた.

ところが,最高裁判所の判決に基づいて収監されている受刑者を,検察庁が釈放できるのである.それが刑事訴訟法442条である.

「あれっ!?裁判所より,検察庁が上位にいるの?」と思うのが社会の常識だろう。

最高裁判所の判決を受けた以上,それで自分の命を奪われるかも知れないのだから,その後,あの憎らしい検事の顔も見たくないし,検事が「釈放する」と言ったからおめおめと娑婆には出たくない.

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このことについて,442条の成立の歴史,なぜ検察庁が釈放を命令できるのかについて,専門家は詳細な解説をして欲しい.私も推察ができないわけではないが,裁判員制度の施行と合わせて法曹界の活動に期待したい。

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ところで,検察庁が判決が確定した受刑者を「勝手に」釈放したことによって,有罪判決を行った高等裁判所判事,最高裁判所小法廷判事は辞任するべきである.

この足利事件は,「人知の限りを尽くして考えたけれど判決を誤った」というのではなく,「容疑者がDNA鑑定をしてくれ」と頼んでいるのに,DNA鑑定をせずに殺人犯としたことにあり,あまりにもミスが単純だからだ.

特に最高裁判所第二小法廷では5人の裁判官の全員一致で有罪判決(上告棄却)を出している。まず,5人の裁判官の名前を公表し,審理の内容を詳しく国民の前に示し.その後,裁判官は謝罪し,退任すべきだ.

そして,検察庁は「被告に対する殺人未遂」の罪で高等裁判所裁判官,最高裁第二小法廷裁判官を訴追すべきだ.これはあきらかな裁判所の職務権限乱用による殺人未遂(死刑ではなく無期懲役だから)事件だ.

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程度問題が判断できなくなった社会は怖い.

殺人をしたとされる被告が「犠牲者の衣服についた犯人と思われるDNAと,私のDNAを鑑定してくれ!」と叫んでいるのだ.

私が裁判官だったら,躊躇せずに「被告がそう言っているのだから,死刑にする前に本人の言い分を聞いて,DNA鑑定をしようではないか.真犯人なら合致するし,犯人ではないなら合致しないのだから.かつて,一度,逮捕前にこっそり警察が被告が捨てたものからDNAを探して行った鑑定などにこだわる必要は無い」と言うだろう.

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「疑わしくは被告の有利に」

などという言葉はすっかり死語になった。裁判所が犯罪を犯す時代だから,やはり裁判員制度は欠点はあるが必要だろう。

国民としてどうしても知りたいことは「最高裁判所の裁判官同士で,どのような会話が行われたか」である.これを知らないで裁判官制度に参加することはできない.情報を隠して,仕事だけしろというのは国家の勝手だ.

(平成2165日 執筆)