松下幸之助が言ったと言われる「お客様は神様です」という言葉は,私の好きな言葉の一つだ。
物を作っていると最初はお客さんの顔が見えるが,だんだん自分の腕が上達してくると,とかく人間の心は傲慢になり,お客さんをないがしろにして自己満足の製品を作るようになる。
あの技術の日立が「リサイクル品を使っています」と虚偽のパンフレットを作って環境大賞を取り,それで大型冷蔵庫を販売する。そして今度はエコポイントを貰う。だれが「お客さん」なのだろう.
そんなことを自戒する意味でもこの言葉はある重みがあるし,だからこそ語り継がれている。
でも少しひっかかるところがある.それは「お客さんがお金を出してくれるのだから,神様だ」というニュアンスも感じるからだ.そしてこの意味だけがいきすぎて「お金を払ってくれる人の言うことを聞く.時には奴隷のように従う」と言うことになる.
建築関係でときどき,そんなシーンを経験する。建築関係では「クライアント」,つまり「お客さん,注文主」という言葉が使われる.「クライアントの希望ですから」ということで,時に奇妙奇天烈な建築物が誕生する。
「あれは町の景観を壊すのではないですか?」というと,一級建築士のような人まで「クライアントの希望ですから」などと言われることがある.
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「お客様は神様ではない」という世界もある.
その典型的な仕事の一つが「医師」だ.医師のお客さんは患者さんであることは確かだが,患者さんが「あの注射をしてくれ」と言っても医師は患者さんの希望通りにはしない.
その医師がある医療法人に努めていて,その理事長が「最近,経営状態が悪いから高い薬を処方してくれ」と言っても医師はそれには従わない。
なぜだろうか? 医師はなぜお客さんは神様ではないのだろうか?
この世には二つの種類の仕事がある.一つは「専門職」であり,一つは「個人職」である.
専門職の一つが「医師」で,医師は「お客さんの希望」に誠意を尽くすのではなく,「自らの仕事について社会の期待に添う」のがもっとも重要なことだ.つまり,見かけは「一人の病人を直す」ということだが,仕事の本質は「人間は時に壊れることがあるから,社会の中にそれを修理する人を置く」ということだ.
従って,専門職は「資格」,「国家試験」,「なにかの規制」があるのが普通で,それは専門職が「お客さん」に責任を持つのではなく,「不特定多数・・・社会」に忠誠を尽くすからである。
私は大学教授だが「お客さん」,つまり学生の希望にそって「優」をつけたり,「単位」を出したりはしない.それどころか,お客さん(学生)を叱ったり,厳しい試練を課することすらある.
それは,私が「お客さんとしての学生の委託を受けて教えている」のではなく,「社会全体が大学での教育を必要とし,その委託を受けて教育をしている」からである.
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アメリカはすべてお金の国という。
でも,アメリカの建築士は決してクライアントの言い分をそのままは実施しない.日本の江戸時代の棟梁のように,また現代のお医者さんのように,「クライアントの希望」は一応,聞くけれど,デザインは建築士が決める。
アメリカの建築士は,その町の景観に合わないデザインはしない.建築物はクライアントのもののように見えるが,実は社会全体の所有物でもあるからだ.
なんでもかんでもお金の時代。マスメディアは「視聴者がよろこぶもの」と言い,政治家は「票が取れればよい」という.確かにお客さんは大切だが,私たちは社会の一員であり,社会全体に対する責任と任務を常に持っていることを知らなければならない.
先の戦争の記憶があまりに強烈だったために,日本社会は個人を重視し,社会全体のバランスや調和を忘れてきた.もう,そろそろ江戸時代の棟梁の世界にかえってもよいのではないか?
若者は「自分のため」の人生を望んでいない.若者は愛国心,郷土愛が強く,国のため,郷土のために勉強することができるが,自分のために勉強できる学生は少ない.ただ,大人が若者を,ファイトがわかない方向にしむけているだけだ.
大人はお金だが,若者は心なのだ.
(平成21年5月21日 執筆)