(1)

心理学者・岸田秀さんのご本はとても面白い。ご本人の筆の力というものもあるが,それより何よりなんと言っても,岸田さんの透徹した思考に感服してしまう。

岸田さんは人間の脳は欠陥があり,「幻想」を抱いてしまうこと,その一つの例が男性の性欲であり,あれほどハッキリしている男性の性欲も幻想であることが証明されている.

(2)

ドイツの哲学者・ヘーゲルが優れていたのは,今更言うまでもない。岸田さんと時代も国も違うからかも知れないが,ヘーゲルの書物の方は難解で「面白い」とは言い切れないところもある.

ヘーゲルも人間の脳に欠陥があり,「現在の知識を正しいと考えてしまうこと」を指摘している。本当に知恵があるのなら,現在,正しいとされていることもやがては覆されると言うことも含めた判断ができるのだが,人間にはそれができない。

(3)

20世紀初頭の社会学者,マックス/ウェーバーも人間の論理の欠陥を指摘している.それは「自己防衛の論理を正しいとする」と言うことに近い.

人間は脳が発達したが,まだDNAなどの指令による「遺伝子の運び手(ドーキンス)」という影響が強く働き,それが脳の判断の一部になっているとし,それは学術を学んだから克服できるという類ではないと言っている.

(つまり)

つまり,「幻想」,「現在認識」,「自己防衛」という3つの欠陥の中で私たちはものを考えたり,「これが正しい」と判断していることになる.

私は野球の野村監督が言った「たかが野球,されど野球」というのに感心したが,それは「野球は人間が作りだした幻想であるが,人間は幻想に一生をかけることができる」という意味だと考えたからだ.

野球が幻想であることは確かである。ストライクが3つで三振にならなくても良いし,ホームベースと打者の距離が固定されている分けでもない.すべては仮想的なルールである.実態はない.

でも,いったん仮想的空間を作ると,それを守るのに必死になったり,まるで真剣勝負のような形相になる。まさに「たかが野球,されど野球」である.

つまり,「幻想」の中に男性の性欲のように自然に備わっているものと,野球のように人間自らが作り上げた「幻想」で自分が苦しんだり,楽しんだりするという二つがあるように思う。

第二の欠陥はなかなか難しい.人間が「正しい」と判断するには,現在,すでに自分の頭に入っているものしか判断の根拠にすることができないからである.

19世紀の後半にヘルムホルツが「太陽はなぜ光り続けているか」という問題に挑戦し,「重力エネルギー」という答えを出したには意味がある.その時にはまだキュリー夫人が研究をしていなかったから,「原子力」という概念自体が無かったのである.

そして,同じように核反応が知られていなかったので,「金でない元素を金にかえる」という「錬金術」も非科学的として退けられた.今では軽水炉の中では白金族の元素が大量にできることはすでに理論的にも,実際にも認められ,将来は本当に錬金術が社会に貢献するかも知れない.

現在の知識で正しいことを判断することに加えて,「現在の知識以上の知識を獲得することはできない」という確信も強い.現在の知識が正しいとすると,知られていないことはないということになり,今後は発明発見,社会改革もすべてないと言うことになる.

たとえば,民主主義は究極的な社会システムであると言った議論もそれである.これまで人間が誕生して以来,社会システムは変化してきたが,民主主義はその最終到達点であるという考え方である。

マルクス経済学や共産主義にもその傾向が見られ,「理想論」,「無謬主義」が中心となって,「ゼッタイに正しい」と叫ばれてきたが,歴史的に見ると間違っていたようだ.

自分は民主主義の次のシステムが思い浮かばない,だから民主主義が最終的なものだと言う論理である。自分の頭に浮かばないものは将来ともないとの確信があるのだ.

3番目の欠陥もやっかいだ.これは「まったく同じ情報に接し,まったく同じ論理で考えても,結論が違う」という時に気がつく.違いの理由は「自分が有利な方が正しい」という判断をするからである.

非常に簡単な例としては,所得の少ない人は所得の少ない人に有利な政策を掲げる政党を支持し,所得の高いお金持ちは,お金持ちが有利になる政党を支持するという場合である.

このような時に,本人の口からは「自分が得するから」と言わないが,それはもともと本人が気がついていて,人間的に「狡い」という場合と,「自分が得するから支持しているということに本人も気がついていない」という場合があり,私の人生経験では後者の方が多いような気がする.

いずれにしても,やっかいなものである.幻想,現在認識,それに自己防衛が判断基準に入ると,話をしても平行線になる。

私たちの脳の欠陥をすこしずつ解明し,多くの人がそれを認識して議論を重ねる日.その日は,インターネットなどが普及すれば情報が共有化されれば,あんがい近い将来に来るのではないかと期待している。

(平成21430日 執筆)