サケを調べてみよう。

サケは川の上流で生まれ、少し大きくなったら川を下って海で育つ動物だ。太平洋を回遊して大人になり、子供を産むまでに成長すると、またもとの川に戻ってくる。

サケがその人生の大半を海で育つのに、なぜ同じ川に戻ってくるのか?なぜ自分が生まれた川ということがわかるのか?なぜ同じ川に戻ってこなければいけないのか?すべて、まだ謎だ。

でも、事実だけはわかっていて、サケは成長して同じ川に戻り、その川がどんなに急流でも、途中に滝があっても、全力を尽くして川をのぼる。

そして、かつて自分の両親が自分を産んでくれた場所にくると、そこで相手を見つけて結婚し、産卵する。綺麗な川の上流にサケが遡上し、産卵する様子は感動的でもある。

でも本当に感動的なのは、産卵の後のサケの態度だ。

サケは産卵を終わると、まだ体は丈夫でも、そのままその体を横たえて死ぬ。産卵をしたら死ぬようにサケのDNAはプログラミングがされている。

そういえば、サケは河口から上り始めた頃から死ぬ覚悟をしているようにも見える。流れの激しい川を上るのは大変な体力がいるが、サケは遡上をはじめるとまったく餌をとらない。まっしぐらに産卵場所を目指して泳ぎに泳ぐ。おそらくは産卵とともに自分の命が終わることを知っており、そのためには餌をとる暇も惜しいのだろう。

さて、サケは産卵を済ませると、安心したように川底に身を横たえて静かにその命を終わるのだが、産卵する場所がそれほど広くないときには、そこにサケの大きな屍が累々とする。そしてやがて冬になる頃、サケの死骸は腐敗して砕け、小さなプランクトンがその死骸を食べる。

やがて、春がきてあの産卵場所から稚魚が湧いたように孵化して来る。半年前に自分の両親が死をかけて自分を産んでくれたとは知る由も無いこの小さな稚魚は川の上流でしばらく成長して少しずつ川をくだる。

川というのは、山の頂上付近に降った雨が一筋の流れとなって誕生する。スタートは純粋なH2O(水)だし、川の上流にはあまり植物も多くない。せせらぎは水がきれいと決まっている。水が綺麗であるということは、その中にあまり餌になるものがいないということだ。

本来なら川の上流には栄養がなくサケの稚魚は食べたくても食べるものがなく、育つことが難しいはずである。ところが、なぜか稚魚のいる川の上流は栄養豊富でプランクトンが多くいる。

どうしたわけだろうか?

実は、産卵した後のサケがまだ元気なのに死ぬのは、自分の体を生まれてくる稚魚の餌にするためである。川の上流には栄養が無い。そのままの状態でサケの稚魚が生まれたら、栄養失調で死ぬだろう。それを防ぐためには自分の身を犠牲にして、その死骸をプランクトンに食べさせておくことだ。そうしておけば、やがてそのプランクトンを食べて自分のこどもが成長することができる。

実に、素晴しい!自分の身を犠牲にすることがどんなことか、よく全体が見えている。

もちろん、サケはこれらのことを全部、自分の頭で考え、計算して死ぬのでは無い。

「まだ生きていたいけれど、もしこのまま生きていたら生まれてくる子供の栄養がないから死ぬのは嫌だけれど我慢して死ぬ」

と考えての上でもない。

サケはそれほど深く頭で考えているのでもない。それでは、なぜサケは自分が犠牲になってまで子供の栄養のことを考えるのだろうか?

いろいろな生物が誕生し、絶滅していくなかで、自分の身を犠牲にして子供をそだてる「本能」を持っていたサケが生き残った。絶滅し、進化するというのはそういうもので、すでに進化した動物の行動を見ると感動するが、それは長い時間の失敗と絶滅の繰り返しの中から獲得した知恵を私たちが見るからなのだ。そして絶滅を免れたサケの方法は「極限の節約」と言える。なにしろ、自分の体を子孫のために提供するのだから。

ところで、人間はサケが好きだ。特に日本人はサケ好きで、世界で五○万㌧取れるサケの三分の一を日本人が食べる。特に正月になると「荒巻(あらまき)」と呼ばれるサケが市場に登場する。

もっとも、日本列島は南北に長いので北の地方と南とでは習慣が違う。正月に豪華な魚としてだされるものは北は新巻サケと決まっているが、南は寒ブリだ。北の方の国に住んでいて、正月におめでたいサケが食卓に出されたら感謝して食べよう。もしかするとサケの方が人間より立派な動物かもしれないのだから。

私たちは動物の生態を観察して、時にとても強い感動を受ける。それは自然の芸術だ。「昆虫記」で有名なファーブルは、虫の生活ぶりを細かく観測し、見事な文章につづっている。それを読むと、生物の進化と絶滅が神秘的といえるほど素晴らしい生命活動をもたらしたことがわかる。とても感動的で楽しい。

進化と絶滅、この地球上で生活をし、子孫を残すには不都合な習慣をもった生物が絶滅することで感動的な習慣を持つ生物が生き残っている。このように考えると、個体が死に種が絶滅することこそ自然の中に感動がある。

生物が絶滅するのはこころが傷む。そして絶滅ということ自体が地球環境に悪いように言う人もいる。でも生物が絶滅した結果として誕生してきた生物の不思議、生物の素晴らしさに感動する。もし、絶滅が無かったら生物はもっと単純だっただろう。

このように長い進化を経て、今でも生き続けている生物の多くは生きるために大変な努力をして節約をしている。

「なぜ、そんなに節約するのですか?そんなに節約して生きている位なら、死んだ方がましじゃないですか」

と聞いたとすると、木やサケはこう答えるだろう。

「自然は限りがあります。そして私の命は私だけのものではありません。私の子供も生きる権利があり、ほかの生物もそうです。だから、みんなで節約して生きる・・・それが進化という長い歴史の中で私たちが学んできたことです。」

(平成21413日 執筆)