久しぶりに新日本フィルのショスタコーヴィチ,交響曲第9番を聴いた.さすが20世紀の作曲家だけあって,伝統的なクラシックの交響曲とは全く違っていて,その現代的感覚を楽しめる.
管楽器も多用されるが,私自身がトロンボーンを吹いていたこともあって,懐かしいやら華やかやらで良かった.
でも,私は歳を経るとともに文化,いや,人間から離れている。 今から30年ほど前,日本フィルが分裂して騒動を起こしている頃から,どうも私ばかりではなく日本人全体の家畜化が始まったのではないだろうか?
・・・・・・家畜化は教育でも始まっているようだ・・・・・・
幼稚園では,お絵かき、お歌、そしてダンスがある.大学には,絵画も,音楽も,そしてダンスもない.教育内容と言えば職業教育ばかりで,教育基本法からも遠く離れている。
今から40年ほど前,それは私が大学にいた頃だが,運動、リクリエーション(当時はそう言っていた),文化的なクラブ活動・・・勉強の傍ら,かなり多かったが,それは受験科目が8科目で,美術,音楽などとの距離が短かったのだろう。
大学受験に美術(絵を描く)や音楽(ピアノを弾く)などを入れると,かなり文句が来るだろう.所詮、人を能力でわけること自体が意味が無いから,受験でなにをテストしても矛盾はある.
でも,芸術大学は別にして,通常の大学は学問を学ぶところだから,人生で一番大切な、運動、美術、音楽,文学などの筆記試験ぐらいは必修にするのは合理性がある.もちろん,英語などを受験科目にするより,芸術の筆記試験の方が適当だ。
私の人生がやや豊かだったのは,高等学校まで,美術、文学,音楽、体操、地理、歴史などを十分に学び,大学でもその延長線上でなにかをやり,それが一生,続いたからだろう。 エントロピーが増大するように歴史もまた劣化する。
ところで,絵画は,自然や人工物をじっくり観察することであり,筆を動かすというのは自己表現である。 英語での自己表現も大切かも知れないが,自己表現なら芸術も同じである。
大学は文部科学省の指揮を受けない。 受験科目を芸術,文学を重視し、カリキュラムを変えることは自らの意志でできる.だから大学人は思いきって社会の「お金」中心とは違い,真の日本人を育ててみてはどうだろうか.
人間,「働く」のは大切であるし,「働くことに意義を見いだす」のも正しい.でも,最終的には人生は「絵,音,体,心」などで楽しむものではないだろうか?
高度成長と言い、リストラと言い、環境といい,そんなことを言っている内に,私たちはすこしずつ「人生で楽しむこと」を奪われ,次第次第に「ただ働く家畜」になっているのではないだろうか?
(平成21年1月24日 執筆)