確かに理想論だと思う。 でも,私は,「誓約書」も「契約書」も要らないと言い続け,実際にもそうしてきた.

もし、私がつきあう人との間に書面で書いた「誓約書」なるものが必要なら,私はその人との関係を止めたいからである。

おそらく,現在の日本に住んでいれば、人をだますこともなく、人に頼ることもなく,自分で額に汗して働けば,自分の人生は過ごしていけそうな気がする.

もちろん,病気をしたりして人の助けを受けなければならないこともあるけれど,それは生物としての自分には仕方がないことだ.その時は御願いする。

でも,ふつうの状態なら,額に汗して働き,その分だけお足をいただいて,暮らしたい.

もし,相手が自分を裏切るなら,一切,相手を恨まずにその瞬間に離れたい。 相手には相手の理屈や正義があるだろうから,それは仕方がない.おそらく,相手はそうしたのだから,それが正しいと思ったのだろう。

相手が「正しいと思ったこと」を,私が「間違っている」と思うことがある.だからといって「私が正しい」と言うことにはならない.相手は相手の正義,私は私の正義があるだけである.

しかし,一緒には仕事をしてもうまくいかない.だから,誓約書は要らずに、単に離れる。

「思い違いがあるから書面に残しておきたい」と言われる。 契約書を書くときにはいつも相手は私を尊重して,そう言っていただける.私は「そうですね」と言い,時に「私は書面は要りませんが,そちらが必要なら」と言って署名する.

文面は一切見ない。見ても仕方がない。

もし「思い違い」があれば,すぐ電話をすればよい.そして相手とお話をして,もしその思い違いで,一緒にやっていけないと思ったら、お断りする。もしお断りできなければ,歯を食いしばっても相手の言う希望を完成して,そして離れる.

大学に移ってから,すべてこの方式で研究をしてきた.研究契約書というのはいつもあったけれど、見たことはない.共同で研究しようと心に決めたら,とにかく成功しようと全力を挙げる。

その結果、成功する時もあるし、契約違反になることもある.でも仕方がない.それが私のできるすべてだからである。 「私は全力でやります.でも,結果はわかりません」と最初から断る。 できないものはできない.

私は社会で生活をし,企業の経験もあるが,どんな場合でも、書面による約束をしなくても,この世はやっていける.

もし,一緒にやっていけない癖の人がいたら(やや軽く約束する人や、誠実ではない人もいるから),その人は周囲の人がだんだん減ってくるから,その人も気がついて,あまり人を裏切らなくなるだろう。

周りの人が少なくなるというのは悲しいものである。 だから,その人は報いは受けているのだ.

この世は誠実と愛情だろう。 それがなければ生きていても仕方がないし、それがあれば書面で書いた約束など必要が無いから.

(平成21118日 執筆)