大学に移って以来,私は多くの特許を取ったが、そのすべての権利を放棄してきた。

今、日本社会は逆の方向に行っている。 大学でも研究が成功し、それが特許になったら,先生は特許権を持ち、お金を稼いでも良いことになっている。

でも,私がすべての特許の権利を放棄しているには3つの理由がある.

まず,第1には教育の現場に「収益」を持ち込んでも,正常な教育ができるかという論理ができていないことだ。 日々の研究で学生が単なる「労働者」になり,先生の言われるとおりに実験するという危険性がある.

もっと直接的には,研究の成果を特許に出す前に、それを卒論や修士論文に書いて良いのか、直ちに公表して,図書室で閲覧できるか,という簡単な問題も議論されていない.事実、「特許をだすから,それは控えておけ」と学生に言っている先生が現におられる。

第2に,特許権がイギリスで成立した過程から見ると,ある人が「自分でお金を出して」社会的に意味のある発明をしたときに、それを社会に公開する代わりに,権利を与えるというものだ.

その点では,私は大学に移って以来,自分のお金を研究に出したのはわずかである。おそらく100分の1ぐらいだろう。だから,私の発明は,国民の税金、学生の授業料(建物などを含む)などに基づいている.

従って,発明したのは私であるから,名誉はいただいても良いと思うが,お金はいただけない.会社の特許とそこがかなり違う。

第3に,私が大学で研究しているのは,研究したいからであり、それが大学の社会的責任だからである。 お金儲けが目的ではない.お金を儲けようとするときの研究と,それとは関係のない研究は,テーマも内容も、目的も全く違う。

収益をあげるための研究は多くの会社がやっている.明治時代ならともかく,現代では大学は「お金とは無関係の研究をするという意味で社会的に意義がある」と私は考えている。

日本中が同じことをしなくても良い。 「有望なもの」は企業が研究する。大学は「先生個人としては有望と思っているが,社会は有望とは思っていない」という研究をするところだ.その中からイノベーションがでて,日本を良くしていく。

かつて為政者はお金に近づかなかったが、今、大学はお金に近づくべきではない.教育者は「学生の人格を涵養する」ことから聖職であり、大学の研究は「社会への奉仕活動」であるから神聖である。

私は教育と研究がしたくて大学に移った.そして世間から見れば低いかも知れないが,安定したお給料ももらってきた。 おそらく私の目的は特許権から入るお金をもらったときに失なわれるだろう。 それは私の人生の終わりを意味する。

お金と人生を交換したくない.

(平成21117日 執筆)