今年のお正月の食卓には,例年のように「黒豆」と「数の子」がお節料理として並びました。日本の正月には欠かせない伝統の料理です。

新年を迎えることができた喜びと健康に感謝し、黒豆を口にして今年一年も「マメマメしく」働くことを誓い、数の子を噛みしめて末広がりに子孫が殖え「地に満ちる」ことを祈りました。

人類の誕生以来、数百万年の間、働くことと子孫を殖やすこと、それは生物としての人間の一番大切なことでもあり、生活の中で変わらないプライオリティーを持ち続けたものでした。

でも、今年に限って私は黒豆と数の子を複雑な気持ちで頂きました。

私たちはあまりにも豆々しく働きすぎたあげくに環境を汚し、あまりにも子孫を殖やしすぎて地上は人間が溢れるようになったと思うと、素直にお正月の喜びに浸れなかったのです。

しかし、伝統が私たちに語りかける声は簡単には消すことができません。働くこと自体は人間の正常な活動であり、人間の真面目さの発露でもあります。豆々しくない生活は私たちの人生を怠惰にし、生き甲斐を奪い、あるいは人生そのものを破壊させる恐れさえ含んでいます。

マルチン・ルターは神から授けられた神聖な職業に忠実であることを求めましたし、宗教は麻薬であるとさえ言った共産主義の生みの親、マルクスは「労働」は人間の活動としてとらえるべきで、労働によって人間がその真面目さを発揮できる機会が失われれば、人間はもっぱら病気になったり、死んだり、泥棒をしたりする場合だけ人間であるようになってしまうと言っています。

このように、私たちが人間である限り豆々しく生活しなければならず、お正月のお節料理は伝統の味を噛みしめることが正解なのでしょう。

伝統は長い時間をかけて徐々に形作られ、そして私たちの生活の中に根付いていきます。守っている伝統が私たちに何を教えているのかを意識しませんが、私たちは確実のその伝統の中で生き、それらからの無言のメッセージ(アフォーダンス)を受けて行動するのです。

凍えるような冬の日、かじかんだ手で大根を洗った先祖たち。灼熱の太陽の下で輜重兵は前線の兵士に食料を届けるために歯を食いしばったでしょう。

彼らの思いは日本の繁栄であり、子孫の幸福であったはずです。その思いは今、私たちの心の中やお節料理に生きていて、私たちにその思いを語ってくれます。

「自分たちが命をかけて築いてきたこの日本を愚かな考えや行動で滅ぼさないでくれ、それでは自分たちの苦労があまりにも惨めだ。」

私たちは今こそマネーを考えながら魂を売る歪んだ現在を見つめ、長い日本の伝統の中にはぐくまれた「礼」、「義」,「恩」の世界を思い起こし、もう少しまともな人間に返るべきだと感じます。

(平成2114日 執筆)