人は「希望」をもって生きる動物である.でも,時として希望が強く,それが現実のように錯覚することもある.
今から100年以上前,「空を飛びたい」という人がいて,背中に羽をつけて崖から飛び降りて死んだ人が多かった.その人は自分が空を飛びたいと思ったら,空を飛べるのだと錯覚したのだろう.
またジェット機が開発されても最初のころは墜落が多く,多くの犠牲者を出した.
「空を飛びたい」というのと「空を飛べる」というのは違う.安全に空を飛べるヒコーキができないと「空は飛べない」.
環境の世界ではこの手の錯覚が目立つ.
その一つが「ゴミを分別すれば資源」という標語である.「資源」が語尾になっているので,小学生などは「ゴミを分別すれば資源になる」と思っているようだが,この標語は「ゴミを分別して資源にしたい」という希望を述べているだけだ.
実際にはすべてのゴミが資源になることはない.また「資源」というのは「物質」ではない.東京湾の海水表面に薄く浮かんでいる油を回収しても,油田にはならない.回収するために使う資源の方が,回収できる油より多いからだ.
「ゴミを分別して資源になる」には「ゴミを分別して資源になるのは,特定の条件を満たしたゴミにかぎられ,さらにそれを可能にする技術や社会システム」ができて始めて実現する.現在ではこの標語にあっているのは,アルミ缶と貴金属しかない.
もうひとつあげたい.
「太陽の光はタダで無限だから太陽電池の電気はタダで無限」という錯覚である.この標語には次の前提が抜けている.
前提;「装置を使わずに太陽の光を電気に変えることができれば」
実際に太陽の光を電気に変えるためには,シリコン,変圧器,バッテリーなど多くの装置が必要となり,またその面積の分だけ土地が使えなくなる.その土地が生産する物を差し引く必要もある.
現在のところ,太陽電池を作るために必要な電気(鉄や銅,シリコンなどの材料を作るときのエネルギー,加工や組み立てのエネルギー,据え付け,保守のエネルギー,廃棄のエネルギーな)は太陽電池を20年ほど使ってできる電気を上回っている.
つまり,この世に太陽電池の電気しかなければ,太陽電池で次の太陽電池を作ることができないから,太陽電池は負の電機製造設備となる.
最近,この手の標語が多いが,これは「ごまかしの文化」や「大人の幼児化」と無関係ではないのだろう.
(平成20年12月20日 執筆)
(注)太陽電池の寿命は装置的には30年ぐらい持つが,台風などによる破損,家の取り壊し,天候の変化などで実際にはその寿命の3分の2ぐらいで廃棄されている.