1953年にワトソンとクリックがDNAの構造を明らかにしてから,遺伝子を操作していろいろなことができるようになった.でも,クローン動物でも遺伝子作物でも,もう一つ,評判が悪い.

科学者の私でも,人間が命を操作するのに抵抗がある.なにか,際限なく奇妙な社会になるような感じがするからだ.人間はあきらめが肝心だが,生命を操作し始めるとあきらめることもできずに,地獄の苦しみを味あわされるだろう.

そこで,「命の操作」を少し別の角度,ブタの身になって考えてみたい.

ブタという動物は実に偉い.とても人格(?)が高く,人間は足下にも及ばない.その理由は簡単だ.自分の命を人間に取られて肉を供給しているのに,まったく文句を言わないからだ.

私がブタの立場になったら,抵抗するだろう.「私の命は私のものだ.命はかけがえのないものだ.暴力で命を奪うのは不当だ!」などあらゆることを言うだろう.

もし,私を食べようとする人が「すまないとは思っているけれど,あなたを食べないと生きていけないから」と言えば,「あなたの命も私の命も同じじゃないですか.なんで,あなたのために私の命が奪われるのですかっ!」と叫ぶだろう.

私は自分勝手だ.

ところが,ブタは叫ばない.ニコニコしているかどうかはわからないが,私たちの命と肉を提供してくれる.

なにか,ブタに恩返しができないだろうか? それを科学技術が可能にしてくれるような気がする.

「四角いブタ」がその回答である.ブタの遺伝子をいただいて,それを加工し,形が四角く,手も足も頭もなく,神経もない,ただ「肉だけのブタ」を作る.DNAを操作するから可能だ.

その「四角いブタ」に栄養を供給するパイプをつけ,排泄物を除く管をつける.毎日,四角いブタはすこしずつ成長する.その分だけ,私は四角いブタをスライスしてフライパンで焼き,ブタのショウガ焼きを食べる.

神経も頭もないから痛くない.命もいただかない.

かくして,人間は「命をいただかなくても,豚肉を食べることができる」ということになり,長年の恩をブタに返すことができる.そしてこれからのブタは屠殺されるかもしれないというストレスから解放されて,悠悠とその人生を送ってもらいたい.

「そんなの気持ち悪い」と言う人がいる.でも,それは人間のエゴで,殺される方では無いからだ.気持ち悪いなどというのは甘い.何しろブタは殺されていたのに,殺されなくなるからだ.

私が娘を殺されるブタの父親だったとしたら,一刻も速く,DNAを操作した「四角いブタ」を作って娘を助けたい.

今,愛知県はCOP10とかいう生物保護活動(生物多様性に関する国際的会議)を始めようとしている.でも私はとても違和感がある.名古屋の市街は名古屋の人の意志でコンクリートで固められ,山羊もアブもいない.店頭にはウシやブタの肉がスライスになって並んでいる.

そんな環境で多様性を議論してなにかなるのだろうか?COP10のあと,名古屋に町には山羊が住み,ブタの死体のスライスは無くなるのだろうか?それとも,また「環境」で儲けようとしているのだろうか?

本当に,生物とともに生きるというのはどういうことか?科学者として難しい課題だ.

(平成201217日 執筆)