「成功するには毎日、辛い練習を続けることです。まじめに努力すること、それが大切です」とテレビの画面では芸術方面で活躍しているベテランの女性が確信に満ちてコメントしていた。

確かにそうだ。人間は動物だから、すぐ「楽をして、飲んだくれて過ごしたい」と思う。でも、それでは人生としても充実したものにならないし、社会も悪いことになるのは経験として知っている。

努力するのは正しい、辛いのを我慢するのも正しい。それは芸を磨くために必要だ。別に他人と競争するつもりはない。でも、結果的には努力し、我慢した人が成功する。

人生で成功というのは何の意味も無いが、結果として成功する。だから「努力」、「我慢」は大切で、その結果・・・これも結果だが、「発展」してしまう。芸術で言えば少しずつ高度な作品が誕生するし、社会で言えばお殿様が決める時代から、国会になる。

科学技術も同じで、技術者は努力して我慢する。そうすると競争に勝つものがでて、社会が発展する。その結果、機関銃ができ、自動車があふれるほど増産される。でも、それは「正常な活動による発展」であって、人間の業のようなものである。

だから、中学生は未来を信じて、勉強し、努力し、我慢させることが大切になる。彼らはまだ人生がどういうものか、社会とは何かを知らない。だから、とりあえず「正しい行動」をさせなければならない。

でも、このような社会の活動と家庭生活を混同してはいけない。もちろん、何かの都合でひとり暮らしの人もおられるが、ここで言う「家庭生活」とは「個人の時間を過ごす。子供が成長する場」のような感じである。

家庭には、結果としての競争はなく、家族全員が幸福をえることができる。だから、努力や我慢はあまり必要なく、いたわりの心、助け合う行動が求められる。一言で言えば「愛」である。

私は「愛用品の五原則」を提唱している。自分の身の回りのものは愛しているものでなければならない。なじみのあるものでなければならない。愛している家族、信頼できる友人でなければならない。

そこには損得も、駆け引きもない。あるのは愛と誠だけである。家族は裏切ることはないが、友人には時に裏切られる。でも、恨みはない。離れるだけだ。

最近、環境問題などで「家庭の倫理を社会に持ち込む」ことが見られる。「もったいない」というのは家庭の倫理であるが、それを国会議員が国策にする。そうすると、結果として私たちの子孫は国際的な競争に負けて惨めな暮らしをしなければならない。

そして、人間には自分が主張できる限度がある。それは「自分が望む生活以外のことを他人に勧めてはいけない」ということだ。自分は世界でトップクラスの生活をしながら、子孫には貧しい人生を強いることになるような政策は発言してはいけない。

温暖化もそうだ。東京はすでに3℃もあがっている。だから、東京に住む人は自分がそれを選択しているのだから、温暖化防止と言ってはいけない。

「贅沢をして清貧を説く」ことになるからだ。

家庭で愛情あふれる生活をすれば、環境を破壊することはない。自分の稼いだお金を自由に使っても環境を破壊しない。もしそれで環境が破壊されるなら、それは個人の問題ではなく、社会のシステムの問題である。

現実に、現在の日本の環境が破壊されていないのは、日本人がまだ、愛する家庭、努力と我慢の社会を作り出しているからだ。それをしていないのは、日本の指導者だけである。

(平成201128日 執筆)