2008年11月24日、麻生政権は教育再生懇談会の廃止を決定した。小渕首相の時と、安倍首相の時に設置された「中央教育審議会ではない教育審議会」の制度もこれで終わりになった。

 もともと文部科学省というところに「中央教育審議会」なるものがあるのだから、もし教育論議が不十分ならメンバーややり方を変える方が良いのにとは思っていたが、それは政治が決めることだから、屋上屋を重ねる方が良いのかも知れない。

 ところで、自民党から民主党に変わると「教育政策」は変わるのだろうか?

 神奈川の高校では服装を入試の基準にした校長先生が解任された。このようなことが続いたら、さらに現場の先生は「人格教育」をする意欲を失うだろう。

 この校長先生を自民党が支持したら私は自民党に投票し、民主党が支持したら、民主党に投票する。政党が態度を表明しても教育の自由は損なわれない。

 高校では白いシャツを着たすがすがしい若者を見たいものである。これはノスタルジアではなく本当のことだ。そして、高校生ぐらいの時には陰でタバコを吸ったりしたい気分もわかる。厳しい教育をかいくぐっていたずらをするのは人間らしくて良い。

 でも、現在の学校はそれほど甘くはない。一言で言えば生徒や学生は「自分がしたければ何をやってもよい」という確信がある。何しろ、生まれてこの方、「日本人の誇り」を教えてもらっていないし、人間としての魂を教えようとすると、問題になり、常に先生の方が悪いとされる。

 それでは先生の意欲もそがれるというものだ。もっとも現実的には、先生の人格も落ちてきているのも事実だ。

 その原因の一つに、小学校から高等学校までの教育は先生の待遇が悪く、教育費も少ないこともある。さらに、国際的に見れば、大学に至ってはOECD諸国の中で、GDPに対する高等教育投資が最低である。日本人は教育を軽視する守銭奴になってしまったのだろうか?

 教育はお金では決まらないが、先生を尊敬して厚遇することによって先生はさらに立派になり、その薫陶を受ける学生も成長する。先生が社会や教育に不満を持っていたり、生活に追われるようでは教育はまともにならない。

 でも、戦後の日教組の活動のように「先生も労働者だ」などと言っていたら人は教育できない。先生という職業は「聖職」である。なぜ聖職かというと、ひとりの人間を教育するのだから、人格も高潔で見本となるべき人材でなければならない。

 先生は「霞(かすみ)を食って」生きていなければならない。身なりも貧弱、食べるものも安く、貧乏でも社会が先生を尊敬する風土が大切だ。

 

 子供は日本の将来を託す人だ。人間は工業製品ではない。だからもし先生が労働者になったら、人を立派にすることは出来ない。

 実際、教育を担当していると、とても「5時になったら帰宅する」などは出来ない。たとえ毎日の仕事は暇があっても、学生が悩んでいるときには深夜までもつきあうし、学生が伸びるときには時間に関係なく教えることもある。

 先日、夜中の2時までつきあった。さすがに辛かったが、それで自分の後継者が育ってくれれば、私の健康は二の次だ。

 子供だから、病気をしたり、ひっくり返ったりするのだ。どの親でも子供が一人前になって自分の手を離れると、寂しい反面、「やれやれ」と思う。でも、先生はほぼ永久的に手のかかる子供たちと一緒なのである。

 小学校から中学校までの教育は「詰め込み」でなければならない。知識は最初に詰め込まないと後で苦痛になる。また、算数でも理科でも、美術でも、出来るだけ科目を増やして学ばせなければならない。

 自民党が詰め込みなら自民党に、民主党が詰め込みなら民主党に投票したい。自民党が日本の魂の教育なら自民党に、民主党が誠なら民主党に投票する。

 でも、高校生になれば精神的にも難しくなるので、詰め込みだけではダメだ。どのように教育するかはかなりの議論が必要だが、現在のように選択科目が多いのは間違いと思う。そして、大学受験はすべての大学が八科目で、基本的な問題を出すようにするのが良いだろう。

 そして、大学教育はもう少しお金をかけないとどうにもならない。現代の日本では大学がもっとも貧弱なところで、企業はもちろん、レストランなどに比較してその貧弱さは相当なものだ。

 私はよく金沢を例に出すのだが、歴史が古く学問を大切にした金沢も、すでに町中には大学は無い。その代わり、ホテルのパンフレットは飲み屋の紹介ばかりで、町に出ると金融機関が目立つ。かつての「知」の町は「金と飯」になったようにすら感じられる。

 人格が高く立派な先生と純真な生徒、そこに社会も大きな期待をもって次世代が育ってくることを見守っているということだ。

 ヨーロッパをまねたくないが、人口が日本20分の1ほどしかないフィンランドはある時に「フィンランドのためには教育だ」ということで、先生の給料を2倍にし、一クラスの人数を15人ほどにして、大きな成果を上げた。

(日本では長年の低い待遇で、熱意を持って教育に当たる先生は少しずつ少なくなっている。教育現場で一所懸命やると、挫折感が強い。)

 フィンランドの学生は競争しない。人との競争ではなく、自らのために勉強する。私はとある大学で150名の学生を相手に、半分が私語と睡眠が横行する中でも、魂を失わないで教えようと必死である。それはとても辛いことだ。

 日本の教育をどのようにするのか、それを単に教育再生会議や文部科学省の中央教育審議会の答申を待つのではなく、自民党と民主党の異なった政策が聞きたい。詰め込みなのか、ゆとりなのか、教育経費を倍にするのか、減らしていくのか、そして先生の待遇をどうするのか、決めなければならないことは多い。

 明治の日本は貧しかった。それでも教育を重視して文盲率は当時の大英帝国より少なくなった。それこそが日本の誇りだと私は思う。

(平成201125日 執筆)