ある事件がおきて、そのニュースをテレビで見ていたら、「私は貝になりたい」と思った。テレビや新聞は「テロを許すな」、「卑劣な行為」と連呼しているが、それより巨大な悪がこの社会に横行しているように思えるからだ。

 犯人だけを非難する新聞論調は、さらに庶民から離れていくように感じられる。

 現代の日本の庶民は5つの暴力に痛めつけられている。一つは「力の暴力」、二つ目は「お金の暴力」、三つ目が「裁判の暴力」、そして、第四が「NHK」、第五が「政治」である。

 第三までは前回、整理をしたので、ここでは第四、第五を示してみたい。

 NHKの暴力は大変なものだ。温暖化問題では「南極が温暖化している。南極の氷が融けている。温暖化すると氷が減る。100年後には6.4℃あがる」とはっきりしたウソの報道を繰り返した。

 もしNHKが「事実を報道する」ことを決意したら、NHKのニュースで「NHKは温暖化でウソの報道を繰り返した」と自ら報道するだろう。もし、NHKが報道機関なら「重大ニュース」を報道しなければならないからだ。

 交通事故を報じるより、「NHKがウソをついた」ということのほうが遙かにニュース性があるからだ。報道機関は「自分」と「他人」を区分けしてはいけない。自分であろうと、他人であろうと視聴者が知りたいことを報道しなければならない。

 でも、NHKは「報道力」という暴力を駆使する。

 もしNHKが暴力機関でなければ、温暖化以外でも、たとえば、防衛庁関係で「NHKの防衛庁番記者は、守屋前防衛庁次官が毎週、ゴルフ接待を受けていたことを取材しなかった」とか、「航空幕僚長の国会喚問を放送しなかった」というニュースを流すだろう。

 視聴者にとっては大切なニュースだ。

 でも、NHKは報道という暴力をふるうために、優れた良い番組を放送する。だから、視聴者はNHKの暴力に気がつかない。「あれほど、良い番組を作るのだから、まさかウソをつかないだろう」とか、「アナウンサーの顔を見ると良い人のように思う」と感じる。

 まさに「地獄への道は善意が舗装する」という言葉通りである。

 意図的な誤報は、優れた番組ではあがなうことは出来ない。ある国家に侵略し、大量虐殺した後、そこに孤児院を作ってもそれは意味がないからだ。

 さて、最後の暴力は政治だ。

 この一、二年でどのくらいの不祥事があっただろうか? 地方では自治体による「隠し金」が次々と明らかになり、中央では年金問題を始め、2度も首相が途中で仕事を投げ出した。林野庁のいい加減な貯蓄制度などのように細かいものをあげればきりがない。

 温暖化では、首相が経団連と「国民にはCO2削減を呼びかけて我慢させるが、産業界は規制しない」という密約を結ぶ。それとは知らない男子高校生が「冷房温度を28℃にしたので、暑くて勉強が見に入らない」と嘆く。

 一方では、政府要人が使う高級ホテルの冷房は常に25℃に設定されている。天下りをして70歳過ぎまで次々と法人を渡り歩いて高給をとる。

 なぜ、政治が暴力なのだろうか?それは政治が悪いことをしても、間違ってもその権力で守られて罰せられないからだ。つまり政治や官僚が悪いことをすると、それは国民に被害を与える。被害を与えられても、その当人には手がつけられないのだ。

 「貝になりたい」というのはそういう心境を言う。

 軍事力で攻める、お金の力で攻撃する、裁判をしても守ってくれない、NHKはウソを報道する、そして政治も官僚も罰せられない・・・でも、庶民はちょっとしたことでも送検される。

 ある女性が携帯電話に充電するために、公共的なところにあったコンセントを使った。「電気を窃盗した」として送検され、それをテレビはニュースで流した。損害額は1円未満。そのコンセントには「これは使ってはいけません」との注意書きもなかった。

 中小企業の社長が、必死に働いてもどうしても金繰りがつかず、銀行も貸してくれないので倒産する。その金額は少ない。でも大銀行が破綻しそうになると国から巨大な税金が投入される。

 まさに「巨悪は眠る」時代である。

 そのうち、「正しいこと」がわからなくなる。ついに「CO2の排出権をお金で買う」ということが正当化される。

 仮に「CO2を出す」という行為が「悪」であるとする。そうすると「排出権を購入すればCO2を出すことが出来る」ということは「悪をお金で買うことができる」ということだ。

 でも、日本社会はそれに気がつかない。全部がひずんでいるからだ。小さい悪は気がつくが、巨大な悪は判断が出来なくなっている。

 

 でも、私は希望を捨ててはいない。テレビや新聞は小さな悪ではなく、巨大な悪を連続して報道して欲しい。

 「日本人の誠」を中心とした、もっと明るい「貝にならなくてもよい」社会を作りたい。子供のため、孫のためにもそうしたい。そのためには、決してへこたれずに端から崩していかなければならないと私は思う。

(平成201120日 執筆)