レジ袋の北海道新聞の記事についての論評はこれで3回目だ。なかなかおもしろかった。本当は相手の先生と向かって、10時間ほど、冷静な論争をすると聞いている人はわかりやすいだろう。

さて、記事の3段目に入る。

「エコバッグに反対する理由として「レジ袋はゴミ袋として必要」という声を聞きますが、貴重な石油を使い捨てのために使っていいものでしょうか。」というと書かれている。

これほど非論理的になると、かえって反論しようとすると、それが正当な批判なのか、揚げ足取りなの判らなくなる。

まず、「レジ袋はゴミ袋として必要」と言っている人は少ない。たとえば私が言っているのは「専用ゴミ袋をわざわざ使うなら、レジ袋で捨てたらどうか」ということだ。

ところで、「環境に配慮し、リユースを進め、石油を大切」と言っている自治体が「レジ袋で捨ててはダメ、専用ゴミ袋で捨てなさい」と言うので、素直な人は「専用ゴミ袋は石油から作らない」と錯覚している。

せっかく、使い終わったレジ袋が手元にあり、それにゴミを入れて捨てられるのに、スーパーにいって専用ゴミ袋を買わせるのだから、ゴミ袋は石油を使わないと思うのも無理はない。そういう質問を受けたことが2回もあった。

レジ袋はゴミ袋として必要なのではない。買い物にも、日常生活にも、そしてゴミを捨てるときにも結構役立つものだ。そのゴミ袋を単に、ゴミを捨てるときにも使おうという節約の心なのだ。

でも、エコバッグを主張する人はゴミ袋には触れないようにする。そして「レジ袋は買い物だけに使っている」というのだが、現実と違っても堂々と言える「裸の王様」の時代になった。

次に、「(レジ袋は)貴重な石油を使い捨て」と言っておられる。これは、資源学の中心的な論点だ。

資源学から言えば、資源が無くなりそうな場合、その獲得競争になる。石油という資源が貴重であるというなら、その社会は石油を中心にできているし、石油が無くなるのが事実なら、石油のあるうちに早く使って新しい時代を築かなければならない。

これはすでに薪(19世紀初頭)、石炭(20世紀中盤)に歴史的に見られたことであり、資源が無くなるときに資源を節約すると、その国や都市は滅びた。

「資源はかならず無くなる」だから「資源が無くなるときには、その資源を先に獲得する方が勝ち」ということになる。石油はリサイクルも何もできない。エネルギーというのは使って捨てるだけだからだ。

さらに次に進もう。

「ドイツでは、ごみを分別用の箱に直接投入し、回収しています。レジ袋はゴミ出しに不可欠ではないはず」とあります。申し訳ないが、「またか」という感じだ。

環境学で私が注意をしているのは「世界はドイツだけ」という思想と、「ドイツは資源消費量も、エネルギーも、そしてゴミも、日本より劣等生」なのに、無条件に「ドイツに学べ」となる。

戦争前の日本は、ヒットラーのドイツを信じ、同盟を組んで戦争した。ヒットラーが良いかということは考えず、「ドイツだから」と言った。それと同じことは注意がいる。本当は「ドイツ」と言わない方が良い。

ドイツは「魚のゴミ」をそのままゴミ箱に入れる。(事実は違うが、この記事にはそう書いてある。)

家庭からでるゴミを袋に入れないで、直接、大きな街角のゴミ箱に入れるという方法も無いではないが、魚の残りや野菜のくずなどが多く入った日本のゴミは可能なのか、ドイツは日本よりプラスチックを多く使っているので、可能なのか、それが問題であり、単にドイツがやっているから正しいというのは論理破綻である。

次にこの記事のクライマックスだ。それは「ゴミ出しが指定袋になれば、レジ袋は(ゴミ出しに)使えなくなります」というところだ。「私には何ができますか」という言葉の中に「日本は民主主義ではない」というのが入っている。

戦前、戦争の時に、よく使われた言葉だ。政治や政策はお上が決める。その中で「貴様にはなにができるか?」と聞かれると「突撃します」と答える。

おそらく、先生と私がもっとも違うところはここだろう。

私はこの国が民主主義と思っているし、そうなって欲しいと希望している。民主主義とは「市民がしてほしいことを、政府や自治体がする」ということであり、「政府や自治体はお上ではない」ということだ。

「天下り」などと言う言葉は公務員が公僕であるという言葉と矛盾する。

自治体がお上なら「ゴミ出しは指定袋」とするかも知れない。でも市民が「レジ袋でゴミを出す」といえば、特別な事情が無い限り、レジ袋でも段ボールでもゴミはどうせ燃やすのだから、出して良いに決まっている。

第一、ゴミを出すときに専用の袋を使わなければならないという理由がない。理由がないから、自治体と業者の癒着と疑われてもよい。これを「李下に冠を正さず」という。

自治体は税金で運営している。だから、業務がクリーンであることに常に気を配らなければならない。レジ袋でゴミを捨てることができるのに、専用袋を強制するなら、その科学的理由と業者との関係をハッキリさせることだ。黙っていたら癒着と考えて良い。

その次にはリサイクルのことが続くので、割愛する。

最後に「意識つけ」が出て来る。「環境問題の浸透により、消費者の側にも現状を考え直す下地はできていると思います。」とのコメントに反論して、このシリーズを終わりたい。

私は次のように考えている。

1) 1990年以後に日本に環境問題は無い。

2) リサイクル、ダイオキシン、温暖化はいずれも被害が出ていない「創造された環境破壊」である。

3) 「日のないところに煙を立てて、一部の人が利権をむさぼる」ということが続いている。リサイクルではすでに一人5億円。レジ袋追放ではスーパーはすでに1000億円を超える売り上げを上げた。

環境問題を浸透させるというのはどういうことだろうか。それは「日本人に錯覚を植え付ける」ということである。北海道は1990年以後も、環境で犠牲になった人、患者さんがいるのだろうか?

私は北海道が好きで良く旅行するが、美しい景色、綺麗な空気、美味しい水、安全なジャガイモやタマネギ・・・何をとっても環境が悪いとは感じられない。

それに少し寒い。もう少し温暖化すると北海道は暖房費も安くなって良いと思うが、なにが環境に悪いと言っているのだろう。私にはまったく理解できない。

ところで、

「税金や視聴料を納める人」と「税金や視聴料をもらう人」の戦いは完全に納める人が負けている。それは政府、自治体、NHK、研究費をもらった学者の連合軍が強いからだ。

彼れらは額に汗して働いてはいない。だから、何とかして多くの人を「家畜化」(なにも考えさせずに、ただ働かせる)ことが目的だ。それができれば、利権、天下り、ぼろ儲け、非能率がすべて完成するからである。

人間は動物だから、自分が得になるように頭が働く。特に、教育を受けた人はその力を社会のために使うのではなく、自分を守るために使う。教育とはむなしいものだ。

(平成20119日 執筆)