金融危機が世界を駆け巡っている時なので、「永久財産」という全く違うものを考えてみたい。
先回、少し触れた「フジヤマ方式」とほぼ同じもので、少し文化的香りを持たせたのが「花のパリ方式」である。フランスはある時、次のように考えた。
「この国が永遠に栄えるためには、魅力のあるパリを保つことだ。そうすれば世界の人がパリに憧れを持ち、来てくれるだろう。」
さすが「考える葦」であり、この作戦は見事に当たった。画家、数学者、キュリー夫人、ショパン、ピカソ、文化人、ビジネスマンがパリを訪れてそこに魅せられた。
よくよく観察するとフランス人は理屈っぽいしプライドも高い。おまけに少し人間が辛いところもある。その点ではロシア人の方が遙かに人なつっこいし人間味がある。でもモスクワとパリというとパリの方に花がある。
人は魅力を感じたところにお金を落とす。だからパリに魅力がある間は、パリは安泰だ。
個人で花のパリ方式をすることもできる。ピアノを弾ける人、声の美しい人には誰でも憧れる。スポーツ選手の魅力もまた花のパリ方式である。フジヤマは山であり、パリは都市だが、魅力の源泉は「モノ」ではなく美や文化と言った「無形物」である。
今や時代は物から心に移っている。でも、本当は昔から人間は「物」そのものではなく、そのものの中に含まれている精神的なことにお金を投じているのだ。
「花のパリ方式」に似ているのが「アリストテレス方式」である。「困った時の神頼み方式」と言っても良いのだが、人間、困ることがある。その時に「彼に聞けば解決する」と心が動く。そういう人物になるのがもう一つの方法である。
総じて言えば、富士山は美、パリは文化、そしてアリストテレスは智というところである。いずれも無形の魅力である。
一八世紀にイギリスで起こった産業革命は、一〇〇年余を経て二〇世紀に花開き「物質の時代」を作り出した。その時代が開き始めた時、すでに感受性豊かなチャップリンが「モダンタイムズ」で、物質の文明はやがて曲がり角に来ると警告している。
二〇世紀に生きた我々はなんでも物質と結びつけている。トルストイの言うように人間は時代の落とし子だから仕方がないが、我々の頭はすべて物である。
まず価値を「モノ」で計る。それができなければお金ではかる。「あそこの料理は美味しいよ」と言わない。「あそこは二万円もするのですって!」という。物質時代はそれで十分なのである。美味しいかどうかより高いか安いかだ。
でもようやく、物質の時代も終わろうとしている。我々の周囲には物が溢れ、ゴミが貯まっている。お金を払いたいのは心であって物ではなくなっている。それでも、時代が移っていく最中だから、「心の財産」ということ自体がハッキリしていない。
具体的に言えば、国債というのは道路であるし、株はトヨタ自動車である。土地、金にしても物だ。我々は物の時代から心の時代に変わろうとしているのに、モノに値段がついていて、心には値段がついていない。
つまり、経済学が時代の変化に追いついていない。未だに経済学は「物が不足している時に成り立つ方程式」を使っている。だから、ゼロ金利や需要と供給のバランスが崩れている社会は考えられないのでである。
それでは「心に投資する時代」の「心の需要供給関係」はどのようになっていて、なにが最も大切なのだろうか?
(平成20年11月6日 執筆)