20081029日、複数のメディアが神奈川県のある高等学校の「不祥事」を伝えた。

「・・・平塚市の神田高校はここ数年の入学試験で、成績順位は合格圏に入っていたのに、願書受け付け時の服装、態度などが悪いことを理由に選考基準に入っていない理由で22人を不合格にしていた・・・」

これに対して、校長先生が

「先生方の生徒指導の負担軽減とまじめな子をとっていきたいという思いだけだった。大変申し訳なく思っている」

と陳謝した。

そして、神奈川県の教育委員会は、「受験者、保護者の希望があれば入学させることも検討する。」とコメントした。

この問題は教育の基本にかかわることであり、基準に書かれていないことで選抜した高等学校側も「小さな」問題はあるが、「大きな視点」からは正しいと考えられる。

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教育はなんのために行われるのだろうか?

「教育は,人格の完成をめざし,平和的な国家及び社会の形成者として,真理と正義を愛し,個人の価値を尊び,勤労と責任を重んじ,自主的精神に満ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行わなければならない」
(少し前の教育基本法第一条)

これは(少し前の)教育基本法第一条である。つまり教育問題を論じるときに、まず第一に意識しなければならないし、私たちが教育に当たるとき、または講義に行くために教授室を出るときに、いつも心の中で唱えなければならない文章である。

教育の第一義的な目的は、「学力や知識」ではない。理科や社会がわからなくても、英語ができなくても、「成績のよい子」というのは「真理と正義を愛し、個人の価値を尊び、勤労と責任を重んじ、自主的精神に満ちた心身共に健康な国民の育成」である。学校の成績はこの順番に採点しなければならない。

成績の付け方が間違っている。

10年ほど前、私は大学院の講義をしていた。教室の中程にいた学生の私語がとまらない。一度、注意をしたが、それでも5分もするとまた私語を始める。「教室の中で私語して、何が悪い」という態度だった。

私はその学生のところに行くと、机の上に論文が置いてある。その論文は英語のもので、内容的にもかなり高度なものだった。

私は言った。

「君は大学教育を終わった大学院の学生だ。しかも、そこにおいてあるように難しい英語の論文を読むことができるほどの学力がある。でも、講義中に注意されても私語を続ける。

人間として大切なのは、第一に人のことを思うことだ。そして難しい論文を読むことができる力があれば、なおさら態度も立派でなければならない。

先生が一所懸命、講義をしているときに、大きな声で私語をするようなことでは、君はまだ教育を受けていないのだろう。だから、教室を出なさい。もう一度、中学校ぐらいからやり直すのだ。」

といって、教室から出した。

現代の教育は荒れている。教師は教育基本法に従って、生徒や学生を指導する勇気も持つことができず、また実施もできない。私語を注意しようとしてもなかなかむつかしいし、講義中に飲食することすら止められない。もちろん、「個性を明らかに越える服装」などはまったく注意できない。

それは、「教育基本法は学校の規則より上位にある」ということになっていないからだ。私語に対する私の措置も、学則に書いてあるかは微妙だ。「学生は教室の中で私語をしたら、教育を受けることができない場合がある」という規定が無いかも知れない。

だから、私の措置は「学則にないことをした」という点では「不適切」であると言える。でも、学則の上には教育基本法があるのだ。それを乱用してはいけないが、それを怖れて教育基本法を無視するのは良くない。

今回の事件をキッカケにして、「人格の形成に著しく阻害要因になることについては、規則に記載されていなくても教育的指導ができる」という原則をたてた方が良いと私は思う。

そして、もし私が教室内の私語を注意しても止めない学生を放置すると、「人が話していても、自分のしたいことをしてもよい」ということを認めることになるからだ。

日本人は礼儀正しく、誠実であって欲しい。「規則に明記していない」という理由で行為の判断をするのは、全体を見ることができない契約社会の悪弊である。

(平成201029日 執筆)

現在の教育基本法の第一条は、

教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない.

となっている。愛国心との関係ですこし変わったが、少し前の方が具体的でわかりやすいと考えているので、ここでは前のものを使った。