はじめに

現代の日本の環境問題(リサイクル、ダイオキシン、環境ホルモン、温暖化など)のほとんどが幻想であることの原因の一つが、予防原則の存在であり、予防原則自体が環境破壊の原因となる可能性があり、また日本の誠実な文化を根底から崩壊させる可能性も含んでいる。予防原則とはどういうものなのか、それは何をもたらしてきたのか、現状から簡単に振り返りたい。

1. 予防原則の成立

予防原則(Precautionary principle)は1992年にリオデジャネイロで宣言されたいわゆるリオ宣言第15原則に端を発する。その内容は、「重大な、或いは不可逆的な損害の恐れがあるときには、完全な科学的確実性に欠けていることが、環境悪化を防ぐための費用効果的な対策を延期するための理由として用いられてはならない」というものである。

この予防原則に補完するものに「代替原則」(より有害性の低い代替物質への代替を検討する)や「未然防止」(因果関係が科学的に証明されるリスクに関して、被害を避けるために未然に規制を行うこと)などの用語がある。

予防原則はその定義から明らかなように科学的根拠が薄弱であり、従って誤りの頻度が高いと予想されるので、すでに2000年2月にはEUで予防原則のガイドラインが検討されている。それは、

1) 釣り合いが取れていること

2) 不公平な取り扱いをしないこと

3) 首尾一貫性

4) 対策の有無による便益と費用の検討

5) 科学的知見の発展についての検討

である。つまり、予防原則を盾に、何でも規制強化を言うのは誤りであり、リスク、 代替リスク、便益、コストなど、様々な側面を吟味し、適切な管理をすべきであるとの内容を含んでいる。

日本では「学問の自由」などのように輸入された概念と同様に、予防原則だけが無批判に取り入れられたために、EUのガイドラインに相当するものはなく、かつその概念も無い。

2. 予防原則の実施

予防原則の普及と実質的な環境問題の終焉の時期が1990年付近と同一になったことが問題ではあったが、ともかく歴史的には1990年頃から予防原則に基づく「環境破壊の予防的規制」が盛んに行われるようになった。

日本におけるほぼ第1号と考えられるのは「リサイクル」で、このまま進むと8年後には廃棄物貯蔵庫が満杯になるとの予想から予防的な措置としてリサイクルが始まった。

第2号はダイオキシンであったが、日本には一人の患者も発生していなかったが、体内蓄積などによってほぼ20年後にガンが多発すると予想されて、予防的な措置を講ずるための法律が整備された。

第3号は、一時的な規制に留まったがオスがメスになるなどの影響があると考えられた環境ホルモン『内分泌攪乱物質』で次世代への影響、つまり30年後ぐらい将来の為に予防的な規制の必要性が強調された。もともと科学的現象である環境ホルモンという名称自体がマスメディアによってつけられたことは、予防原則が「科学的根拠薄弱」ということを示している。 従って、データの一部に強い疑念が示され(たとえば男子精子数の減少など)、現在ではほとんど問題にはされていない。

そして4番目に100年後の気温上昇を予防的に低減するためにCO2の削減が実施されようとしている。気温上昇による現実的な環境破壊は、現在、一部に見られるものの、世界全体で対策を講じるとか、人類の文化が滅びるというような大がかりなものではない。しかし、予防原則に沿って100年後の環境破壊に備えようとする動きが見られる。

予防原則は「科学的根拠が薄弱で、真に環境破壊が来るかどうかは不明である」というのが前提であるが、このような予想された環境破壊は、それが社会問題になると、あたかも科学的根拠があるように報道され、認識されるということになった。

事実、家庭ゴミの体積の過半を占めるプラスチック類のリサイクルは現実に1から2%しかされていなかったが、それでも廃棄物貯蔵所が逼迫するという事態を招かなかった。またダイオキシンでは患者は相変わらず0であり、将来も出ないと予想されている。

3. 予防原則と誤報

日本における予防的環境破壊については、NHKを中心として誤報が相次いだ。予防原則の適用とマスメディアの誤報は論理的にも対になっていて、このような事態を招いたのは予防原則についての社会の未成熟を示している。

すなわち、予防原則は、まだ環境破壊が具体的におこらず、科学的根拠も薄弱なので、映像などでその事実を示すことは不可能である。それにもかかわらず営利を目的としていないNHKでも映像を流したい為に誤報が相次いだ。

たとえばダイオキシンでは患者が発生していないので、患者の映像は撮影できないのであるが、ベトちゃんドクちゃん報道に見られるように興味本位の誤報が繰り返された。また環境ホルモンでは「相模湾で一週間、探し続け、最後の日に一匹の奇形を見つけたにもかかわらず、放送ではその奇形魚の映像を最初に放映するという手段」が使われた。

さらに、温暖化では「100年後の映像」を撮影する必要があるので、IPCCが「南極の氷は変化していない。また将来、温暖化すると増加する」と報告しているにもかかわらず、IPCCの報告を報道する目的の番組で、NHKは南極の氷が融けている場所だけを放映した。また南太平洋のツバル、北極海のクマなどについても、次々と誤報を繰り返した。

さらにNHKでは2008年に行われた洞爺湖サミットの前に集中的に温暖化放送を行い、主として国立研究所の専門家を登場させて、温暖化に対する科学的批判を封じるという手段もとった。

予防原則による環境規制では、あくまで予防的であり、かつ科学的な証明が不完全なのだから、それを前提に他種類の見解を報道するなどの必要があるが、歴史的事実はまったく考慮されないということであった。

また温暖化に関する国際政治の動き、たとえば、京都会議、京都議定書、バード・ヘーゲル決議、ベルリン・マンデートなどの主要なものに対して、表面的な報道に終始したのも、予防原則と会議内容との乖離を十分に説明し得なかったことに原因の一つがあると考えられる。

4. 予防原則の評価

環境関係のことについては、初期段階では水俣病などのように現実に被害がでていたことから、「環境保全」に対する批判は時に社会的に糾弾され、言論や表現、および学問の自由自体が攻撃の的になることもあった。

この風潮は被害者にいない予防原則時代にも延長され、私自身もリサイクルが成立しにくいという学術発表を高分子学会で行った際、会場から「売国奴!」と呼ばれた経験がある。現実に被害者が出ているときには、社会的にはその批判は慎重を要するが、予防原則下の規制においても同様の傾向が見られることは、主として利害関係者の悪のりであり、健全な学術的進歩を妨げると考えられる。

また、1990年以後の予防原則が適応された規制には二つの特徴がある。一つは、予想される時間が、8年(リサイクル)、20年(ダイオキシン)、30年『環境ホルモン』、そして温暖化では100年と徐々に将来にわたるようになり、かつ100年という検証不能な時間が設定されるに至っている。仮に100年後に破壊が予想される場合に、その規制を明日から行う為には予防原則のように「科学的に照明されていないもの」では不十分で、新しい概念が必要であると考えられる。

さらに第二の特徴としては、これまでの予防原則はほぼ全部が間違っていたということである。リサイクルはほとんどされていなかったが、環境は破壊されていない。従って、予想が現実にならないときに、その溝を埋めるために「ウソの報告」がなされる。たとえばリサイクルでは「回収率」を「リサイクル率」と表示したり、焼却を「サーマル・リサイクル」と読んだり、さらには環境大臣が示したリサイクル品が、新品だったこと、大々的な紙のリサイクル偽装が発覚したなど、枚挙にいとまがない。

これらのことから日本の環境問題については予防原則は、その概念の正しさにもかかわらず、結果的には日本の環境を破壊するのに貢献したと評価することができる。

5. 重要問題と微細問題

  予防的措置はその結果がどのようになるかがわからないので、それに基づく規制とその効果がわかりにくい。その結果、政府をあげて進めてきたCO2の規制にもかかわらず、まったく規制の効果がでないという奇妙なことになっている。

また、エネルギー危機、食糧危機、食糧安全問題、原油価格高騰問題、世界金融の崩壊など巨大な重要問題が進行している中で、レジ袋の追放による最大でも1万分の1の削減(学問的には間違い)などの運動が行われるなど、物事の軽重を理解していないし、また平衡感覚を失った政策も見られる。

これらも「予想」という不確実なことで、人の心を心理的に不安にする問題を、大きな社会全体で進める場合の困難さを示していると考えられる。

たとえば、世界的に見て日本のCO2排出量は4.5%にしか過ぎず、日本はGDP1万ドルに対して原油換算エネルギーは95トンに過ぎず、アメリカの3分の1以下である。従って、学問的には日本におけるCO2の削減は世界の気温にまったく影響を与えない。

仮に、温暖化によって日本の環境が破壊されるなら、気温の上昇に関する対策を講じる必要がある。また、気温の上昇に関する環境破壊についても、海水面の上昇などの「ウソ」と、コメの不作などの「対策を講じないことを前提とした破壊」が問題になるなど、予想によって思考の幼児化が進むという特徴もある。

予想にもとづく環境破壊にどのように対処するのか、さらに深い研究を要するだろう。

おわりに

予防原則の実施は、さまざまな問題を起こしてきた。その評価を至急、冷静に行うことが環境を深く考える上で最重要課題であると考えられる。特に、「予想」においてはどうしても厳密性は求められないことから、責任ある立場の人や、若い専門家が自らの目先の利益だけを考えて言動を替えることも、予防原則の登場とともに表面化してきたように感じられる。

(おわり)