社会保険庁の犯罪は、すでに歴然としている。年金記録の記帳忘れですら、日本社会に対する背任罪と見なされるし、年金記録の故意の改ざんに至っては、これが民間なら直ちに司法の捜査が入るだろう。

「国」とか「指導者」というものが求められる法律違反、規律、倫理は、権限を持たない一般国民より厳しいものを求められる。それでこそ、その人たちは特別な立場にあり、国民を指導できるのである。

しかし、すでに社会保険庁の職員自体の自白、およびそれを受けた厚生労働大臣の刑事告発発言などがあり、明々白々な事実があるのに、しかも年金改ざんについての裁判も行われたのに、裁判所は「国が犯罪を犯すはずはない」という理由から国に対する犯罪を積極的に隠蔽しようとしている。

本当は、裁判所が国を裁く前に「裁判所が裁かれる」という時代なのだが、それは「国が被告の時には、その弁護には裁判官の同僚である裁判官が当たる」という国を保護する方法が、ずっと続いている限りは望み薄だ。

つまり、司法の世界では「国の犯罪を保護する規定」というのが存在し、司法の人はそれを「良し」としているのである。つまり、私たち国民は憲法を信じて日本は民主主義と思っているが、その憲法を守る人が憲法を守らないつもりなのである。

司法の世界が歪んでいるのは、すでに多くの事実がある。

その明白な事件の一つに「西山事件」がある。毎日新聞社の西山記者が、沖縄返還に当たってアメリカ政府と日本政府の間に密約があったことを暴露した。この密約が「必要なことだったか、それとも不必要だったか」という政治的な判断は政治がするものである。

しかし、西山記者は「不法な取材方法」ということを理由に起訴され、最高裁判所で有罪判決を受けた。もし「不法は取材」が正常な取材の自由の範囲に無ければ、「国の犯罪」を裁くことは不可能である。

たとえば、社会保険庁の詐欺行為に対して、正面から「詐欺行為に関する質問状」を出しても、通常は返答が来る可能性が無いからだ。だから、新聞記者は必死になって何とか社会保険庁の詐欺のしっぽを捕まえようとする。

もちろん、国会は国会で、政府は政府で、そして国民運動家は国民運動として不正を糺す活動をするのだが、それに報道の記者による取材、学者による調査などが社会を正常に保つ。

その一つが西山裁判で崩されたのだ。それ以後、日本の報道の取材は腰が引けて国の犯罪を摘発できないでいる。

西山事件の最高裁判決の不当性は論じなくて良い。それより、当時の主要な関係者であるアメリカ大使に、こともあろうに判決を書く立場にある田中最高裁判所長官が、公判中に秘密裏に面会していたことで十分である。

日本政府とアメリカ政府の間の密約が裁判になっている公判中に、当事者のアメリカ大使に会うこと自体が不見識だが、最高裁も不見識だと思ったのだろう、その事実を隠していたのである。

つまり、最高裁は「悪いことをする人」で作られている。悪いことをする人が正義を裁けるはずはない。悪いことを良いこととして判決を下すだろう。かくして、西山記者は有罪判決を受け、日本の司法が国の犯罪を隠すことを正当化したのである。

社会保険庁はいくら刑事告発などと脅かしても、高をくくっているに相違ない。その理由は、政府、国会(自民党)、報道、そして司法が「悪を守ってくれる」という確信があるからだ。

(平成201019日 執筆)