10年前、著者が小さい頃もそうだったが、なぜか日本の小学校や中学校では児童や生徒に「目標」というのを意識させる。

「あなたは将来、何になるの?」と聞かれる。小学校の頃、将来はバスの運転手になりたいという作文を私は書いている。そんなに将来のことではなくても、野球をすれば甲子園、合唱をすれば全国大会と、いつでも「目標」が強調される。

でも、目標は「目指すもの」ではないと私は思う。

目標とは「結果として与えられることがあるもの」に過ぎない。つまり、毎日、自分なりにすこし努力しながら生活していって、その結果、あちらから来るのが「目標」なのだ。

人は生きている。生きているものにとって最も大切なのは、生きることそのことであり、それすら神様が決めればあの世にいかなければならない。つまり、人は運命に支配されるものなのである。だから、自分で目標を定めるというのはいささかおこがましい。

朝、起きて、支度をし、自分なりにその日を過ごす。努力家は努力すれば良いし、浪費家は浪費すればよい。ダルな時もあれば、ハッスルしたい時もある。

それでも、自分として何かをする。どこかを掃除しても、書籍を書いても、パンを販売しても、バスを運転しても、一つ一つは社会に為になるし、まわりの人は感謝してくれている。

その結果、あるときにお金や栄誉を得ることもある。一心不乱に学問をしていたら、ノーベル賞をもらったというようなものである。最初からノーベル賞を目指して、その人がもし受賞の栄誉を得ても、みんなから尊敬もされないだろう。

目標を置いた人生というのは醜い。それは、「自分だけが・・・」という心が見え隠れするからだ。

そして、もし、自分がやっていることが「善行」なら、それはそっと隠れてしなければならない。「マイ箸を使う」ということが「環境に良いこと」であるとすると、マイ箸をクビからぶら下げて他人に見えるようにするのは醜い。

でも、「こうならなければならない」、「目標を達成しなければ・・・」と苦しむ人が多い。その苦しんでいる人を見ると、毎日、立派な生活をしているのだ。なんで、苦しんでいるのだろうか?それは、その人が小学校の時に、目標を置くことが正しいと習って、それがそのまま残っているのだろう。

人生は楽しまなければならない。笑い声に囲まれなければならない。そのためには謙虚でなければならない。そして、そのためには目標を置いてはいけない。

もし、目標を置くなら、それは心の中におくものであり(心中密かに思いを定める)、決して公言する性質では無いのである。

自分の人生は自分のものであり、他人と比較して変わることはない。そして、自分の人生は他人のものであり、自分が他人を蹴落としても良いことはない。

(平成201014日 執筆)