時々、武田の環境の考えは、あるアルピニストが行っている「環境保護活動」と正反対だと言われる。もちろん、人によって考え方が違うのは、むしろ良いことであるし、特に環境などと言う複雑なことでみんなの意見が一致する方が奇妙だ。

 だから、特に気にとめていなかったし、そのアルピニストは富士山のゴミをかたづける運動をしているというので、大変、結構な活動ではないかと漠然と思っていた。

 ある機会があって、彼のお話を直接、お聞きすることができた。私が理解した彼の考え方は次のようなものだったし、私と考えが違うということもなかった。

1)  エベレストの8000メートルより高いところに、ゴミがあふれるほど捨てられている。

2)  シェルパから「日本の富士山のようになっている」と言われた。

3)  日本の富士山に来てみると、頂上付近はゴミの山だった。

4)  そこで、エベレストと富士山のゴミの清掃を続けている。

5)  大変な作業で、特にエベレストでは毎年、この作業でシェルパが死ぬぐらい厳しい。それでも頑張る。

6)  エベレストでは温暖化が進んでいて、氷河が融けている。

7)  融けた氷河が大きな湖を作り、それが決壊したら、大きな災害になる。

 後半の温暖化はまた別の時に触れるとして、前半のゴミの問題は、なにも違和感はなかった。

 彼の言っておられることは、「環境」のことではなく「犯罪」のことだからだ。彼は「犯罪をするのは良くない」と主張している。環境ではなく倫理か法律の問題だ。

 かつて、エベレストにはほとんど誰も登っていなかった。富士山も登る人はいても、その数はかなり少なかった。

 だから、その人たちが山になにか捨ててきても、特に山が汚れるということはなかったし、エベレストを汚している「酸素ボンベ」などは20世紀に使われ始めたものだから、これも最近のものだ。

 つまり、昔は山に登る人も少なかったし、装備も軽かったから、山で「ゴミは麓(ふもと)のゴミ箱に、トイレも麓のトイレで」などという規則を作らなくてもよかったのだ。

 ところが山が大衆化した。それも富士山やエベレストというようなかなり高い山ですら、大衆化した。その結果、人間が汚したものを自然がかたづけることができなくなったのだ。

 その時点で「山の規則」か「山の法律」を決めなければならなかったのに、決めていなかったから、昔のままにゴミを捨てたということだ。

 結果的には「環境破壊」だが、実際には環境の問題ではなく、規則を作ることをサボったことによって起こったことである。

 山に上る人の数が増えたときには、

「ゴミは麓(ふもと)のゴミ箱に、トイレは麓のトイレで」

という当たり前の規則を作ればよい。

 人間でも動物でも、数が多ければゴミをゴミ箱に捨てずに、トイレはトイレでしなければ、そこは汚れる。それは「環境を守る」という以前の問題である。「してはいけないことはしない」という単純な問題だ。

 でも、それから先が少し違う。私はそのアルピニストはそうは言っておられなかったような気がするが、周囲の人が彼の趣旨を変えたのだろう。次のようになっている。

「富士山がゴミで汚れている。ゴミは環境を破壊する。だから、山のゴミは街におろしてこなければならない。でも、街からもゴミをなくさなければならない。だから分別したりリサイクルしなければならない。街をゴミゼロにしなければならない。」

という論理に展開されている。

 この論理は、「純真な心が発端だが、結果的には、正しい心を曲げる」ことになっている。倫理問題が環境問題にすり替わっている。

 富士山がゴミで汚れている。これは確かだ。だから、ゴミはゴミ箱に、トイレはトイレでしなければならない。それは倫理的なことであり、もし規則があれば「犯罪を犯さない」ということでもある。

 単純なことで、環境とは直接には関係がない。街でもゴミを道路に捨て、ところかまわずトイレをすれば汚れる。それは軽犯罪法の取り締まり対象になる。

 次に、山にゴミ箱を設置しても、そこにたまったゴミは、山の中で焼却するか、麓におろして処理しなければならない。ゴミはどこかで処理しなければならない。

山ではゴミを処理するのがイヤだといっても、人間はゴミも出すし、トイレもする。単に、山から街におろしてそこら辺に捨てれば、今度は街が汚れるだけである。

 ゴミが減らせれば別だが(この話はまた別の機会にしっかり整理する)、ゴミやトイレはどうしても人間生活にはつきまとうもので、まず第一に、ゴミとトイレの汚いものを毎日のようにかたづけることができる仕組みを作る必要がある。

 山なら「ゴミを麓に持って帰る」、「トイレは我慢するか、自分のトイレは自分で麓に持って帰る」ということができるし、それは当然のように思われているが、本当にそうだろうか?

 本当は、山でも街でも、また海でも、「ゴミは(その場所の)ゴミ箱に、トイレは(その場所の)トイレで」ということを守り、その後、そのゴミとトイレを処理する方法を確定し、合意しておかなければならない。

 現在の技術と社会制度では、「ゴミは焼却」、「トイレは下水道処理」で処理せざるを得ない。ともかく、ゴミやトイレは処理する方法が必要だということだ。

 アルピニストは「みなさん、ゴミはゴミ箱に、トイレはトイレで」と呼びかけているが、そのゴミを街に持ってくるなら、山より街を大切にする人はゴミやトイレを山に捨てそうな気がする。

 山にも焼却炉を作り、下水処理場を作る必要がある。それとも、エベレストに焼却炉も下水処理場も作ることができないなら、それを街に持ってくることになるので、今度は街の方で山のゴミやトイレをかたづけるようにしておかなければならない。

 それぞれが責任逃れをせずに、自分の出したゴミやトイレは自分で処理するようにしたいものである。

(平成20924日 執筆)