1990年まで、日本人の夢の実現は、科学技術が担当してきた。
かつて三種の神器といわれたテレビ、冷蔵庫、洗濯機も科学技術だ。さらに新三種の神器の、自動車、クーラー、カラーテレビも科学技術の産物である。
その前には水洗トイレ、瞬間湯沸かし器があったが、これも大きな貢献だった。生活の中にくみ取り便所があり、冬の寒い朝、人類はあの冷たい水のつらさを味わい、あかぎれになったものだが、それも解消した。
そして、コンピュータと携帯電話を最後に、科学技術はその歩みをゆるめて、「さあ、誰か私の代わりをしてください」と言っているようだ。
私は科学技術を担当しているのだが、科学技術はたいしたものだろうと威張っているのではない。科学技術も所詮、限界があり、利便はもたらすが、人に幸福をもたらすことはできない。その限界は痛いほどわかっている。
人間はまず第一に生きること、そして第二に毎日の人生を楽しむことだ。
でも、さっぱり科学技術の後に登場はずの「楽しませてくれるもの」は姿を見せない。デザインも、音楽も、小説も、テレビ番組も、みんな自分自身を確立することすらできず、ひたすら科学技術の悪口・・・大量生産、大量消費が悪いんだ・・・と言っている。
そしてエコに走っている。
別にそんなことを言わなくてもよい。もし科学技術に変わる「人間を楽しませてくれるもの」があればみんなはそちらになびくだろう。それが誕生すれば、自然と科学技術から離れるだろう。
なにが出てくるのだろう。今は次のものが見つからないので、とりあえず「自然、節約」などといって旧時代のレジュームにしがみついているように見える。
でも、まだ科学技術に頼られるているので、技術は碌なことしかしない。人間の脚を使わせないように至る所にエスカレーターを作ったり、頭を働かせないようにコンピュータで漢字を書き、99(くく)の計算をする。
私はこれを「廃人工学」と言っている。人間が生物として持っている本来の力をドンドン不要なものにしている。
技術は、人間を廃人にするために一所懸命のように思う。でも人間は生き物だから、そんな廃人工学でフラストレーションを起こし、ますます「自然と節約」に追いやられている。
誰か、すっきりと解決してくれないだろうか? それは「自然、節約」ではなく、私たちの毎日の人生が楽しくなるものなのだ。
私にはどうしても、眉間にしわを寄せて、「節約しなければなりませんね。リサイクルしない人はケシカラン!」と言っているのに同調したくないのだ。
楽しくないから。
(平成20年9月20日 執筆)