歴史には時に天才、そして奇才が登場する。そのような人たちが奇想天外な活躍をして、新しい時代を開く。歴史はダイナミックでおもしろい。

オットー・フォン・ゲーリケという人もそんな天才、奇才の一人だろう。17世紀の初め、1602年にドイツのマルデブルグという市に生まれ、 1686年、ハンブルクで没した。

ゲーリケを有名にしたのは、1646年から1676年まで実に30年間の長きにわたりマクデブルクの市長を勤めている間、1663年にベルリンで有名な「半球の実験」という公開実験をしたことによる。

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日本でこの絵が有名なのは中学校の理科の教科書に載ったからで、なんとなく懐かしい。

 彼は市長でもあったが、真空ポンプを発明したことでもわかるように、科学者でもあった。でも、この半球の実験が行われた背景には、トリチェリがゲーリケの実験の20年前、1643年に水銀柱を使って真空を発見したからだ。

 トリチェリの「真空の発見」もあまりにも有名だが、この科学的な大発見は「真空というものを発見しよう」と頭の中で考えたものではない。

彼の師匠だったガリレオ・ガリレイが「真空が無限にものを引きつけるなら、なぜ水を10メートルしかあげられないのか?」という疑問をトリチェリに投げかけたからである。

 「科学」が「技術」に先んじる例も無いではないが、多くの場合、技術が先行し、その謎を科学が解くという場合がおおい。ここでも「水は10メートルしか上がらないのか」という経験的な知見が、大きな科学的発見のもとになっている。

 ゲーリケの実験はトリチェリの発見を受けて「それでは、真空の力というのはどのぐらい強いのか」を感覚的に理解しようと行われたものである。半球を二つ合わせた球の中を真空にして、それを16頭のウマに引かせる。

 それでも半球はビクともしない。それを見せておいて、次に球の中に空気を入れて大気に戻すと、いとも簡単に二つに分かれる。まさに「真空の力」という目に見えない現象を目の前で見せたのだ。

 さらに歴史は続く、1642年ガリレオが世を去り、翌年、真空が発見される。それから20年後、真空の力が世に示され、さらに60年後、ニューコメンが「蒸気を使った真空の力を利用する装置」、つまり蒸気機関を発明するのである。

 トリチェリからニューコメンまで80年。原理の発見が実用になるのに、多くの例は数10年を要することを示しているが、この場合もそうだった。

 山の上にあるダドリー城に水をくみ上げるために、ニューコメンは石炭を焚いて水に熱を加え、それをいったん、シリンダーの中に充満させた後、そのシリンダーを冷やして真空を作り、その力で水をくみ上げた。

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 このようにするとシリンダーを暖めたり冷やしたりすれば、一回につき、シリンダーの「真空の力」の分だけの水をくみ上げることができる。

 「技術」(工学)はまず最初にこのように「科学的原理」をほぼそのまま応用した形で姿を現す。でも、このような段階ではおおむね装置は「使い物にならない」。

 ニューコメンの蒸気機関は人類初めてのものとしてその価値は高いが、残念ながら、「くみ上げる水の重さより、城の上にある蒸気機関にくべる石炭の方が重い」という状態だった。

 バケツ一杯の水をくみ上げるのに、それ以上の重さの石炭をロバの背中に乗せて城まで運ばなければならないのだから、そんなことなら最初からバケツ一杯の水を運んだ方がよっぽど利口である。

 当時、つまり18世紀のイギリスには「税金にもとづく補助金」というものは存在しなかったので、誰もがこのニューコメンの蒸気機関がすばらしいものであることには気がついたが、「実用化するまでは仕方がない。もし運が悪ければダメかも知れない」と思っていた。

 もし、ニューコメンの蒸気機関が、「真空の力を使って動物の力の代わりができる」という「未来性」に感心して、大英帝国政府が補助金を出していたら、蒸気機関の発達は遅れただろう。

 つまり、不効率なこの蒸気機関は補助金をもらうことによって「仮の実用化」が達成されるから、努力して改善する必要がなくなったはずだからである。

 でも、当時は補助金が無かったので、なんとかしてこのすばらしい可能性をもった装置を実用化しようと取り組んだ。その一人にジェームス・ワットがいたのである。

 ここではジェームス・ワットの熱力学と着想力、そして何がこの装置を実用にまで持って行ったかという詳細は述べない。ただ、科学と技術とはこのように関係していくものであり、技術に人間が下手に補助金などを出すと発展を妨げることを指摘したい。

 現在で言えば、太陽電池がこれに当たる。

 半年ほど前、太陽電池の製造として日本の1,2を争う会社のトップにお目にかかった。

武田;「なぜ、太陽電池に補助金をもらうのですか? 将来、有望な技術なら貴社が自分のお金で開発をする方が良いと思いますが。それに、補助金というのは国民の税金ですから」

トップ;「そうですね。私も技術屋としてそう思います。当時、大蔵省から「お金が余るからどうにかしろ」という指令が通産省に来て、業界の幹部が呼ばれて、「補助金を出すから受け取れ」と言われたんです」

 「なるほど」と納得した。国家のことを思う官僚がいなくなった現代、ありそうな話だ。

当時、太陽電池の補助金を出す理由として「大量生産したら太陽電池の価格が下がるから補助金を出す」というまったく理解に苦しむことが言われていた。

 でも、現代の日本の工業はそれほど柔ではない。

企業の中で基礎的に行われた研究を、スケールアップしたり、製造量を増やしたら、その結果どうなるかぐらいは簡単な計算ができるし、それができないで大きなメーカーを経営することなどあり得ない。

 太陽電池のメーカーは巨大企業だから、資金調達もできるし、研究開発を継続することも可能である。太陽電池を量産すれば価格が下がり、石油火力との競争に勝つことができるなら、もちろん経営陣は大量生産するし、電力会社も乗り出すに決まっているのだ。

 特に日本の電力会社は地域独占で、力が強い。もし太陽電池が強敵になるなら、必死で太陽電池の研究開発をするに決まっているが、国民の多くが嫌っている原子力発電に熱心だ。

 太陽電池は量産すれば実用化するというものではなく、「太陽電池で作り出される電気を使って次の太陽電池を作ることができない」というジレンマがあるからだ。ちょうど、ニューコメンの蒸気機関のパラドックスと同じである。

 だから、太陽電池にも「ジェームス・ワット」が登場しなければいけないのであり、補助金が必要なのではない。

(平成20914日 執筆)