1990年から始まった「一部の科学者が作り上げた環境破壊」の典型例の一つがダイオキシンである。ダイオキシンは、動物実験で毒性が確認された化合物であるが、そのようなものは他にもあり、ダイオキシンがあれほどの騒ぎになったは、それなりの社会的背景があると考えられる。

 今回は、社会的背景はともかく、ダイオキシンとベトナムの奇形児の関係を復習してみたい。

 ダイオキシンの毒性は、最初に誤ったコピー(青酸カリより強い毒性)が流布されたので、急性毒性があると思っている人もいるが、急性毒性はニキビだけで、それも通常の生活では発症しない。

 従って、「ダイオキシンに接するとすぐ死ぬ」ということはないのだが、発がん性は深く研究された。また奇形児との関係はベトナムの報道があったので、日本では有名だが、医学的にはそれほど研究されていない。

 その一つの理由は、妊娠中の女性、胎児を含めて多くの人がダイオキシンと接した1976年のセベソの事件で、生殖毒性や奇形児が統計的に見られないことがある。また生殖毒性の報告も2,3、見られるが注目されるほどでもない。

 ダイオキシンの毒性で今後も注意を要するのは発がん性だが、一応、ダイオキシンを特別扱いせず、普通の薬物程度ということで一段落できるだけの十分な研究結果がある。直接、論文を見てみたい人は、和田攻「ダイオキシンと産業保健」、およびそこに引用されている原論文が良い。

 論文は100編ほど引用されており、いずれも重要な論文である。自らが判断する場合は、論文を理解する必要がある。

 私に対するネットの反論のように原論文を読まないで、いい加減な反論をしている人がいるが、ダイオキシンは人の健康に関係するので、批判したりするときには十分に文献を当たってからにした方がよい。

 その点では、ベトナムの奇形児を報道したマスメディアもそうで、人の健康に関することは「安全サイド」というのはなく、「正しく理解する」ことだけが大切である。

また、普通の人には理解がむつかしいかも知れないが、医学的な因果関係が認められていないベトナムの奇形児を「ダイオキシンが原因ではない」と証明することはできない。

 つまり、学問的手続きとしては、

1)  セベソにおける暴露者、および世界中の13万人の高濃度暴露者

2)  ベトナムの枯れ葉剤暴露者および軍人

3)  ベトナムよりダイオキシン濃度の高かった日本の水田

に注目して、「ダイオキシンが生殖毒性や奇形児の発生の可能性が高いか」を検討する。

 そして1)から3)の研究によって、「ダイオキシンでは顕著な奇形児の発生は見られない」ということが確定している。

 もちろん、自然界にある化合物や生物も含めて、すべての物質には何らかの発がん性、毒性、崔奇性があり、確率はゼロではないが、「発がんの確率がゼロのものだけに接して生活をする」ということをすると、たちまち栄養失調、餓死、あるいは凍死(家の中に住めないから)する。

 以上が、医学的な面でのダイオキシンとベトナムの関係であるが、環境面から見ると、環境破壊とは、数名の被害者がでるものではなく、比較的に広く、同じような状態にある住民が被害を受けることを言う。

 仮にベトナムの枯れ葉剤でのダイオキシン濃度で発症することがあれば、セベソおよび日本の水田による被害者が発生すると考えるのが科学的な思考順序である。

また、ベトナムの場合は「もともと、奇形児がダイオキシンと関係がある」ということ自体が根拠がないので、根拠がないことを打ち消すことはできない。

 たとえば、「最近、自分の膝が痛くなってきた」ということを、「これは温暖化が原因しているに相違ない」と考えることもできる。しかし、「膝が痛くなって来たことが温暖化の影響ではない」と否定することは普通は不可能である。

 つまり、もともと因果関係の弱いことを、任意につなげた場合、その否定は科学的には不可能である。可能性は常にゼロではないが、医学や環境学はもう少し明確な因果関係をもとに築かれているからである。

 いずれにしても、日本の環境という点を考えると、日本人には、特殊な事故を除き、環境という面ではダイオキシンによって発症した人はいないし、今後もでないと予想されている。

 だから、このダイオキシン騒動は、一部の科学者が作り出したものなので、一般の人が判断するのではなく、科学者の判断にゆだねた方が良いだろう。一般の人が自ら理解できる範囲は、環境破壊が現実に起こっている時であり、「科学的予想」の場合は、あくまで科学者の議論を聞いて、判断する以外には方法がない。

 「この航空機は次のフライトで墜落するか」という判断は亀裂発生状況などについて専門的知識をもっている科学者しか予想できない。このことは民主主義とかそう言う問題ではない。

 環境問題には、科学的に判断せざるを得ないものがあるので、私は、科学者の誠実さと倫理を求めているのである。「研究費をもらった学者は発言するべきではない」と厳しく論評しているのも、環境という重大な問題に関与する科学者の誠実さを言っているに他ならない。

(平成2097日 執筆)