自分を見つけるのがとても難しい時代だ。
その理由は、身の回りの人、身の回りの情報のほとんどが、「自分のことを考えて言ってくれる」ものではないからだ。
なにか、ものを買おうとすると会社の商品の宣伝に接するのがほとんどだ。お店に行ってもそれは基本的には変わらない。だから、本当に自分が何を欲しいのかはハッキリはわからない。かなり警戒して見る。
新聞や書籍、そしてテレビなども、「おもしろい番組を報道して視聴率を上げたい」というのが多いから、そこでも本当の人生を見いだすのはなかなか困難である。今日は「記録的豪雨」ということががテレビを席巻していた。おそらくは、怖がらせて番組を見させようとしているに違いない。
職場の友人や、周りの人たちはまだずっと自分に近いけれど、本当に親身になってくれているとは限らない。本当にむつかしい人生だ。よく、こんなに自分と関係のない人の影響を受けて生活をしているものだ。
でも、そんなことはいつの世でも同じだと思うかも知れないが、そうでもないと思う。
イライザ・シッドモア。1884年。
「日の輝く春の朝、大人の男も女も、子供らまで加わって海藻を採集し浜砂に拡げて干す。……漁師のむすめ達が臑をまるだしにして浜辺を歩き回る。藍色の木綿の布切れをあねさんかぶりにし、背中にカゴを背負っている。
子供らは泡立つ白波に立ち向かって利して戯れ、幼児は楽しそうに砂のうえで転げ回る。婦人達は海草の山を選別したり、ぬれねずみになったご亭主に時々、ご馳走を差し入れる。
暖かいお茶とご飯。そしておかずは細かくむしった魚である。こうした光景総てが陽気で美しい。だれも彼もこころ浮き浮きと嬉しそうだ。」
このような生活の中で接する情報は、正直で家族からのものがほとんどである。たまに、遠い町の情報も耳に入るけれど、それは僅かだ。
そして、自然は人間に対して、何か意図を持っていることはない。自然はどっしりとして温かく人間を包んでくれる。こんな環境なら、「売らんかな」の商魂にまみれた言葉に攻撃されることもない。
現代にいてシッドモアが描写としたと同じ環境の中で考えることができないだろうか?それが若い頃からのテーマであり、会得してきたことでもある。
「学は幸福を与えてはくれない」と苦情を言う人がいるが、もともと科学は幸福とは縁がない。科学は「利便性」をもたらすものであって、その利便性を幸福につなげるのは自分である。
自分が求めることはなにか、それがわかると驚くほど毎月の生活は安上がりになり、そして楽しい。自分を見いだすことが本当に大切な世の中になってきた。
(平成20年8月29日 執筆)