「誠実」というものがなぜ「良いもの」と感じられるのか?もし、人間の性質がもともと「悪い」ものなら、誠実というような言葉はイヤな響きをするはずだ。

 でも、人間にとって「誠実」という言葉の響きは心地よい。逆に「不誠実」はイヤな言葉だ。「あなたは誠実な人だ」と言われると気分が良くなるが、「あなたは不誠実だ」と非難されると、反撃の一つもしたくなる。

 なぜだろうか?よく性善説、性悪説と言うけれど、誠実だと言われて喜ぶなら、人間の性質はもともと良いということなので、性善説の方が正しいように思うが、どうも哲学者は違う回答を出している。

 近代インドの哲学者、タゴールは次のような例を引いて、誠実というのは「元々の人間の性質」が求めているのではなく、「物事を実行するときに必要なものだから」という説明を行っている。

 タゴールは言う。

「盗賊というのは、自分の額に汗して働き、それで生活をするのではなく、人を襲い、時には人をあやめてその物品を奪って生活をするのだから、完全に「非道徳的」な存在である。

しかし、その盗賊団が「盗む」という非道徳的な行為を成功させるためには、「誠実である」という完全に道徳的な行為が求められる。計画段階では誠意を持って頭を絞らなければならないし、実施段階では打ち合わせたことを誠実に実行しなければならない。

つまり、盗賊という存在自体は非道徳的なのだが、その非道徳的な目的を達成するためには盗賊団が道徳的であることが前提になる。」

タゴールがこのように説明した「非道徳的な行動は、道徳的でなければ成功しない」という事柄の中に、「なぜ、人間は「誠実」を気持ちよく感じ、「不誠実」をいやがるのかという真なる理由が示されている。

 私たちが「誠実」という言葉を心地よい響きで聞くのは、私たちの心が正しいからではなく(正しいかも知れないがそれには関係なく)、人間の社会がうまくいくためには、まずその社会を構成している人たちが誠実でなければならない、それはたとえその社会の目的が盗賊のように非道徳的なものであっても変わらないからである。

 長い人類の歴史の中で、おそらくこのことはかなり初期にわかってきたのだろうが、誠実であると言うことが多くの人が幸福になる、もっとも基本的なことであると言うことになり、それが余りに長く続いたので、私たちの意識に深く刻み込まれたのである。

 逆に言えば、不誠実とは「社会をダメにする」、あるいは「他人に被害を与える」と言うことを意味するので、忌み嫌われると言うことだ。

 私たちが「食べて美味しい」と思うのは、私たちの体が求めているからであり、生きていく上で必要のないものを美味しいと感じることはない。舌の味蕾は自ら、もしくは自分の集団が生き残るために存在するものだからだ。

 心も同じで、誠意ある心や行動は、私たちの社会をまともなものにし、多くの人が幸福になるのにどうしても必要なものである、と偉人は口をそろえて言っている。

(平成20827日 執筆)

(追記)

 ネット社会というのは20世紀の終わりから成長してきたものである。この社会が「まともな社会」、あるいはネットに参加している人たちの多くが幸福を感じる社会にするためには、「誠実」が一つのキーワードになるだろう。特にネットには原則として警察官がいないので、そこに参加する人は自らに節度を持ち、強制されなくても誠実な行為をすることが、ネット社会の健全な発展に役立つのだろう。