多くの日本人が環境に興味を持ちだしたのはそれほど昔ではありません。1960年代は高度成長の中で一所懸命、生産に励み、1980年代はバブル景気に浮かれていました。しかし、1990年の初頭、バブルがはじけてみると、私たちの身の回りにはゴミがあふれ、毒物も危険な状態になっていました。

そこで日本社会は環境に過剰反応して、次々と「環境破壊」を退治してきましたが、その中にはあまりに視野が狭く、ほとんど環境には関係が無いものまで含まれていたのも現実です。

そんな時代が過ぎ、18年が経ちました。私たちは多くの経験を積み、結局、環境とは自然との共生である、もしくは自然をよく知らなければ環境を守ることはできないことを知ったのです。

1.       環境問題の錯覚をとる

  環境問題には3種類があります。

その第一は約一万人の犠牲者を出したロンドンスモッグ、それに劣らぬ世界的薬害事件の水俣病などで、現実に犠牲者を出し、原因が特定されているものです。これに分類される環境問題は1950年代に顕在化して、1980年代に先進国ではおおよそ解決されます。この第一種の環境破壊と言われるものは、脱硫技術、有害物質除去技術、そして代替技術など、環境破壊の原因となった工業が自ら解決策も作り出したものです。意外な感じがすると思いますが、環境を悪くしたのも、また解決したのも工業だったのです。

開発途上国ではまだこの第一種の環境破壊に苦しんでいますが、先進国ではほぼ解決しているので、その技術を開発途上国に供与するのが当面の問題です。

これに対して第二種の環境問題は「被害者はいないが、科学が創造した環境破壊」です。ここで、「科学が創造した」というのは「科学が原因になって環境が破壊した」というのではなく、「原因はともかく、科学的な推定によって将来環境が破壊されると予想されるもの」です。ですから、現実には犠牲者はいないのが普通です。

この第二種の環境問題の典型的な事件がダイオキシン騒動で、日本ではもちろん、世界でもほとんど犠牲者がいないとされているのに、環境破壊物質として騒がれたものです。何しろ、ダイオキシンで健康障害を受けた人はほとんどいないのですから、それが怖れられるというのは不思議な現象で、まさにバーチャルの時代を象徴しています。

この種類の環境破壊には、リサイクル(廃棄物貯蔵所が満杯になる)、ダイオキシンや環境ホルモン(健康障害が予想された)があり、いずれも予想は外れています。リサイクルでは、リサイクルの象徴的なものだった紙のリサイクルで大規模な偽装が発覚し、多くのリサイクルが利権に基づく物である可能性が指摘されています。

  私たちは環境を大切にしたいのですが、それによってもっと大切なもの、日本人の誠を失いつつあります。

現在は、第二種の「科学が創造した環境問題」の三番目、地球温暖化が中心的な環境問題ですが、これも「科学が創造した」ものですから、科学の予想が的中するかどうかで議論が分かれるわけです。現在は100年後を問題にしていますが、それでは余りに未来が遠いので近い将来、30年後ぐらいが議論になるでしょう。

でも、私たちが本当に心配しているのは、第三種、つまり、自然の破壊、食糧不足、化石燃料の枯渇、微量元素の不足など、私たちの生活を根源から覆すと予想される問題です。この問題に取り組むためには、技術だけでは解決せず、おそらく自然への深い理解、私たちの生活様式の変更を必要とするでしょう。

2.       地球はどうなってきたか?

自然を理解するときには現在の自然ばかりではなく、これまで地球はどういう経過をたどったかを知ることが大切です。たとえば、生まれたての地球は数時間で一日が過ぎ、めまぐるしい生活だったのですが、今では一日は二十四時間になっています。

地球が誕生したとき、大気はほとんどが二酸化炭素で、それが原始の海に融け、次第に生物によって炭素と酸素に分解されて、炭素は岩石や生物の体をつくり、酸素は大気に放出されました。太古の昔から生物が行ってきたのは、二酸化炭素を炭素と酸素に分解する仕事だったのです。

その酸素が対流圏から成層圏にのぼり、そこでオゾンとなってオゾン層を形成し、太陽からの有害電磁波を止めたことが、生物の大発生になり、現在のような緑豊かな地球になったのです。生物にとっては特別に幸運でした。

でも、一つの時代に繁栄した生物はやがて絶滅し、次の生物が誕生します。もし昔の生物が絶滅しなければ私たちは地球上にはいないでしょう。そして私たちもまた、かつての生物の死骸(珊瑚礁、鉄鉱石、石炭、石油など)を使って生活をしています。前の生物にとっては死骸だったり廃棄物だったりしても、次の生物にはなくてはならないものになる、それが自然の叡智と言えるでしょう。もちろん、自然はリサイクルなどはしません。自然は節約家ですから、一つの物は徹底的に利用して廃棄します。そして生活に使う物がなくなると、絶滅してしまいます。

今、一番、先になくなりそうなのは二酸化炭素です。生物が繁栄した頃には10倍以上もあった二酸化炭素は減り、すでに残り少なくなってきました。地球の歴史という意味ではやがて二酸化炭素の濃度が減り、現在型の生物は絶滅するでしょう。もちろん、急激な二酸化炭素の排出は環境を破壊しますが、人間の知恵で二酸化炭素を減らすことなく、それをコントロールできるようになったら、人間は初めて他の生物から感謝されると思います。

3.       これからの自然と私たちの生活

さて、私たちは自然とどのようにつきあい、生活していかなければならないでしょうか?私は二つのことを提案しています。

一つは、石油を節約することなく、石油のあるうちに、現在の名古屋のように「石油が無ければ生活ができない」という環境を変えることです。石油を節約すると変化させることができませんから、たとえ自分の意志に反しても石油を使い、石油のいらない社会を作らざるをえません。

これはあと30年ぐらいしか余裕の時間がないと私は思っています。それを私たちがしなければ、子孫は酷い環境で苦しむでしょう。

次に、私たち自身の生活を「物に頼る生活」から「心が満足する生活」に切り替えることです。

その第一に「愛用品の五原則」があります。日常的に使うものは物珍しいものではなく、愛着を感じられるものでなければなりません。愛着のある物、愛しているものを使えば生活のストレスは減りますし、愛している物ですから、当然、すぐには捨てるはずもないので、結果的には長く使うことになります。ものを節約することは大切ですが、それを直接、目的にすることなく、心の満足を得た結果として物を節約する生活を目指す方が良いでしょう。

第二には、人間らしい環境を作っていくことです。この頃、会社では9時から12時までの時間に電気をつけて、昼休みは「温暖化を防止するため」といって電灯を消す会社がありますが、人間は生きるために働くのであって、昼食を楽しく食べられないような職場を作ってはいけないと思います。

また、マスメディアは暗い将来ばかりを報道しますが、人間の知恵はそれほど貧弱ではなく、必ず解決策を見つけていくという確信を持って明るい社会を作りたいものです。朝、太陽が上がると、「夢」、「希望」、そして「無謀」という名前の鳥が飛び立たなければいけないと私は信じています。

明るい社会を作るためのもう一つの必要条件は「安全であること」で、そのためには「してはいけないことはしない」という日本の文化の伝統が守られることです。世界がどんなに犯罪が多くても、日本だけは犯罪のない社会を作りたいものです。だからこそ、環境には「日本人の誠」が大切なのです。

そして、最後に「環境とは何ですか?」という問いに対して私は次の用に答えたいと思います。

・・・好きな人がいれば一杯のコーヒーでも夢のような二時間を過ごすことができるけれど、好きな人がいなければパソコンを買い込んでオタクになるしかない・・・

人間は心の動物です。心を満足することを社会が作り出すこと、心を満足する生活の中で人生を送ること、そのような社会を早く作りたいものです。

参考

【愛用品の五原則】

一、  持っているものの数がもともと少ないこと

二、  長く使えること

三、  手をやかせること

四、  故障しても悪戦苦闘すれば自分で修理できること

五、  磨くと光ること、または磨き甲斐があること

【ものとこころ・・・マハトマ・ガンジー】

「こころというのは落ち着きのない鳥のようなものであるとわたしたちはわきまえています。物が手に入れば入るほど、わたしたちの心はもっと多くを欲するのです。そして、いくら手に入っても満足することがありません。欲望のおもむくままに身を任せるほど、情欲は抑えが利かなくなります。」

【日本人の誠・・・貝塚のモースの執筆から】

「鍵を掛けぬ部屋の机の上に、私は小銭を置いたままにするのだが、日本人の子供や召使いは一日に数十回出入りをしても、触っていけないものは決して手を触れぬ。」

(平成20824日 執筆)