熱闘が終わり、ホームベースを挟んで両軍が挨拶を交わした後、球場にアナウンスが流れる。「勝利を称え、校旗を掲揚して校歌を斉唱します。」

 確かに、その勝負では自分は力を尽くしたのだが、負けた。激闘の余韻が残っているなか、相手の勝利を称えるのは辛い。でも、それは相手に対する礼儀である。勝負の礼儀として相手に敬意を表さなければならない。

このことをもう少し、深く考えてみると、自分に勝利した相手を称えるということは、「こんなに強い自分に勝ったのだから、君はすばらしい」ということでもあるので、自分に対するプライドでもあり、また逆説的には傲慢でもある。

 新渡戸稲造の「武士道」に「礼儀」の一つの形態としてある出会いの振る舞いが紹介されている。

 真夏の太陽がじりじりと照りつける真昼時、先方から知り合いのご婦人が歩いてくる。彼はご婦人を見つけて声をかけ、お互いに丁寧に挨拶を交わす。

 太陽の光は相変わらず二人を照りつけている。彼は話を交わしながらそっと、それまでさしていた日傘をたたみ、炎天下に身をさらず。この時の彼の心境を新渡戸稲造は次のように解説している。

 「私とあなたがもっと親しければ、私の日傘の中に入っていただきたい。でも、ここは天下の公道であり、私とあなたはそれほどには親しくはない。だから、あなたが炎天下で私とお話をしていただけるなら、私も同じように炎天下で」

・・・・・・

 「礼儀」というのは形から入る。挨拶の仕方、席の譲り方、大勢の人がいるときの立ち居振る舞い・・・など、礼儀を学ぶ第一歩である。そして日本にはそれを集大成した茶の湯もまた盛んである。

 江戸の幕末、開国した日本を訪れた多くのヨーロッパ人は、日本人の礼儀正しさに感嘆した。それは大名の奥方のように、当然のように優雅で礼儀正しいと予想される人ばかりではなく、おおよそ日本人全部、ひなびた片田舎の農家のご婦人までまったく同じように礼儀正しいのだった。

 それから150年。日本はヨーロッパ列強の植民地になることなく独立し、戦争に敗れ、復興し、そして経済発展を遂げた。「衣食足りて礼節を知る」という言葉は日本にとっては事実ではなかった。

 現代の日本で「礼儀」を見いだすことは難しい。脚を投げ出して電車の席に座る若者、座りたい一心でまだ降りる乗客がいるのに乗ろうとする中年、そして極めつけは「ホームに入る方と出る方、どちらからも入ることができ、早もの勝ちの改札機」に、私が切符を入れようとするのだが、後、1センチになったところで向こうから駆け込んできた上品なご婦人がサッとICカードをタッチする。

 私は思わず2,3歩下がり、そのご婦人は威風堂々、私を蹴散らすように進んでくる。

 そんな社会になったのも、「衣食足りて礼節を忘れた」一つの例だろう。でも、これまでどうもなじめなかったこの「両方から入れる改札機」はそれほど悪いものではないように思えた。

 礼儀を失った日本社会。もしこの変な装置がきっかけとなって、「改札機で譲りましょう」という運動が起これば、また「礼儀正しい日本人」が復活するかも知れないからだ。

 西郷隆盛がどのような人物であったか、さまざまな批評もある。でも、彼の姿は無条件に日本人の心を揺さぶる。

 彼が、とある人を訪ねて、遠路はるばるとやってくる。もちろん、当時は電話も汽車もないのだから、大変な労力と時間をかけて知人を訪ねに来たのだ。

 そして、その家の玄関に着いた彼は、すっくとその巨体で立ちつくす。もう、そこに来て何時間になっただろうか、家の中に声もかけず、ジッと玄関に立つ。

・・・声をかければ家の人は、その時に何かをしている手を止めて、私を中に入れてくれるだろう。でも、それは「自分のために相手を働かせる」ということだ。だから、相手が気がついてくれるまで待とう・・・彼はそう思った。

 そのような彼の人格が日本人の心に響く。理屈から言えば彼の行動はおかしいかも知れない。でも、それが日本人の礼儀というものだ。

 日本には「人間とは、物質的な存在である以上に、精神的なものである」という強い確信がある。だから、「最高の礼儀を身につけた人が畳の上に座している時、いかなる暴漢でもその人を襲うことはできない」とされる。心をもって力を封じ込めることができるという確信である。

(平成20820日 執筆)

(追記)

 ネット文化もまた「礼儀知らずの日本人」を増やしているのではないかと心配だ。匿名性というのが大きな問題だろう。「匿名と礼儀」という点では、匿名を使う時には「絶対に人の批判をしてはいけない」という制限条件をおいた方が良いと私は思う。それを「法律」ではなく「私たち日本人の集合体」が自主的に始めたいものである。