藤原さんの「国家の品格」が火をつけて、「・・・の品格」という書籍やエッセイが目につくようになった。それだけ、何となく多くの人が「品格」というものを大事にしなければならないと思い出したのだろう。

私も「日本人の誠」と「学問の自由」を軸として活動している。

私が言う「日本人の誠」とは、自分が犯罪を犯してお白洲に引き出されたときに、「恐れ入りました。私がやりました」と答える勇気を持ちたいからだ。自分が罪を犯したときに、それをそのまま認める勇気があるか?私は時々、自問自答する。

私が考える誠実の基本は「言っていることと行動が一致している」ということだ。温暖化では「CO2の排出がダメというなら、自分の給料の2分の1は捨てる」ということであり、「レクサスを買うことができても、軽自動車に乗る」という勇気である。

もし、自分が出しているCO2が世界の人の平均以上なら、私はCO2を削減した方が良いとは言えない。自分では出来ないのだから。

もう一つ、「自分が言うことは、どこでも同じ」ということだ。これも簡単なようでとても難しい。ときどき、口まででて「ああ、これはダメだ。この前、言ったことと違う」と思って黙ってしまうことがある。

人を傷つけたり、個人的なことでなければ、自分の知っていること、自分がそうだと思うことはそのまま言うことにしている。特に「権力がある組織については、絶対に、曲げないで言う」ということにしている。

この前、自由民主党の人と、愛知県の人の前で話をした。大変、失礼ではあるが、自由民主党や愛知県のご批判もさせてもらった。その方が目の前におられたからではない。いつも言っていることはそのまま言わなければならないと思った。ただ、礼儀があるから「ご批判をすることになって、大変、失礼だが」と断った。

次の私の軸は「自由」だ。憲法で「言論の自由」が保証されている。類似の自由に、表現の自由、報道の自由、取材の自由、学問の自由などがある。

これらの自由は「とかく、政府や団体などが、力が強いのを良いことに、普通の人が発言するのを制限したり、ひどいときには逮捕されたりする。それは社会の健全な発展にはならない」ということから来ている。

いつでも、どこでも、誰に対してでも「自由」があるわけではない。自由という権利は大切だが、それを乱用しないように注意しなければならない。自由を守るためには乱用をしないという「品格」が必要だ。

比較的、「自由」に「自由」が発揮できるのは、相手が国、大政党、大企業、役所、警察、組織、NHKなどの時である。

国を自由に批判することはできる。それは「自由」がもともと必要なのは国があるからであり、強力な力を持っているからだ、また「私は国の一員」だからでもある。

NHKもそうだ。NHKは強大な情報発信能力があり、しかも私は視聴料を支払っている。だから、強制的にNHKを見させられる。民放ならこちらに選択権があるが、NHKはない。「今月は、見なかった」と申請してもなぜか視聴料を返還してくれない。

ところが、「個人」と批判する権利というのは、与えられているだろうか? 

人間は誰しも「人と違う考え」を持っている。「君は間違っている」という発言は、その人から見れば正反対になる。だから、個人対個人の場合は批判自体が難しい。

また、言論の自由、学問の自由などは個人を批判したり、名誉を傷つけたりするためにあるわけではない。

それに特にネットで匿名というような場合には、個人批判が多く、しかも言葉使いが汚い。人間の社会には礼儀は大切で、相手の人格をおとしめるようなことは望ましくないとされている。意見の違いのある時には、相手の批判をするより「自分はこう考えている」ということを先に言うことだ。

もし、相手を批判するときでも、「大変、失礼だが、私は・・・考えております」というぐらいだろう。

私はネットというものは人間の生活にとても役に立つと思う。でも、それはネットを利用する人、活用する人が、自らある自制心をもって望むことだろうと思う。

とりあえず、「個人の罵倒合戦」のようになっている場合で、どうしても気がムシャクシャして、「汚い言葉とか、相手の人格を傷つけることを言いたいとき」には、自分の方も覚悟した方が良いだろう。

そのためには、「書き込む人の顔写真、名前、住んでいる都道府県と町の名前」ぐらいを常につけるようにしたらどうだろうか? 罵倒した方だけがなにもペナルティーが無いのも奇妙だ。

「無礼者!名を名乗れっ!」

(平成20728日 執筆)