私が書いた「愛用品五原則」、それは本当に環境に良い生活というのはどういうものなのか?を迷っていた頃の作品である。
自分の使うものが決まっていて、それは時にはダダを捏ねるけれど、とても気に入っている・・・そんなものが愛用品ではないかと思った。愛するものの囲まれた生活。それこそが環境なのだろう。
「節約」の大号令があり、「ものを大切にしよう」と言われていた。分別もリサイクルも盛んだった。でも何となく違和感があった。
ものを大切にするのではない。それは単に結果に過ぎない。ものは大切にはしなければならないけれど、やはり身の回りのものは人間のためにある。人が物の為にあるわけではない。
愛するものは容易には捨てない。だから、結果的にものを大切にすることにはなるけれど、それは結果に過ぎない。
ゴミは私の役に立ってくれたものだから、邪険には扱わないが、それでも、さあ、分別しろ!、さあ、何曜日に出せ!と偉そうなことは言わず、そっと去っていって欲しいと私は思った。
毎日が愛するものに囲まれ、希望や夢にあふれ、そして笑顔と笑い声が絶えないそんな生活を送ることが人というものである。それには何がいるだろうか?
傲慢だった私が、少しずつ謙虚になったのは、その頃からだった。自分の傲慢さが一つとれていくごとに、愛するもの、希望、笑顔が一つ、増えるのだ。
この原理原則に気がついたのは、もうかなり前になるけれど、それは私にとって衝撃的だった。そうか・・・それはそうだな。当たり前のことだ・・・
愛するもの、希望、夢、そして笑顔や笑い声は「傲慢」とは相容れない。自分の「謙虚」に周囲が応じてくれるのだ。私は突撃する。でも私の心は以前と違って、いまは、謙虚な心で突撃できる。
一年に、一年ずつ、私は人生の時を失う。でも、神様は私に一年分の宝をあたえ、私はそれで一年ずつ、幸福になっていく。
(平成20年7月25日 執筆)