会社に行くと、9時から12時までは煌々と蛍光灯がついているのに、12時になると電気が消え、その暗い、新聞も読めないような部屋の中で、背中を丸めて中年の男性が黙々とお弁当を食べている。
きっと、家族のために必死になって働いているのだろう。お弁当も昼食代を節約するために愛妻が作ってくれたに相違ない。
人間の方というのは不思議なもので、斜め後ろから見るとその人の人生が見えるような錯覚に襲われるが、そんな中年男性の肩は、生きているようで死んでいるようにも見えた。
・・・そういえば・・・
名古屋大学にいた頃だった。工学部5号館の4階に私の研究室があったが、そこまでエレベーターで上がっていくと、廊下はいつも真っ暗だった。
戦後に建てられた建物だから、特に自然の光を取り入れるという構造をしている訳ではない。廊下の両側にはびっしりと研究室が並んでいて、時にはロッカーなどがおいてあって、廊下が狭い。
だから、蛍光灯がないと昼でも歩けないほど暗いのだが、そんなところの電気が消えている。もちろん理由は「地球温暖化を防止しよう」ということだ。
私はこのようなことが大学の工学部で行われることに、違和感を感じたものだ。
第一の理由はやや屁理屈だが、「電気は貯めておけないから、消してもエネルギーの節約にはならない」というものだ。学問的に厳密は用語を使うと難しくなるので、かんたんに言うと、エネルギーにはダムの水や石油のように貯めておけるものと、電気や腕力のように貯めておけないものがある。
電気は発電所で石油を炊いてしまったら、もう、後戻りすることはできないから、電灯を消すというのはあまり工学の教育に良くないのではないか、学生が貯めておけるエネルギーと貯められないもの(動力)との区別ができなくなる。
第二の理由は少しまともだが、廊下の電気が消えているのに、研究室に入ると窓を少し開けて冷房していた。冷暖房に使う電力は、だいたい電灯の10倍だ。特に工学部5号館のように狭い廊下と両側に大きな研究室があるような場合、その比率は20倍にもなる。
部屋は風通しを考えてないので、どうしても冷暖房が必要だが、私には対策が「表面的、精神的」なものと感じられた。どうせやるなら実際に効果のある方法なら我慢しても良いけれど、大学の工学部がずっと精神論にとどまっていて良いのだろうかといぶかった。
第三の理由は、まじめな理由だった。
工学部は明るい未来を信じて、自然現象を応用して人類の福利に貢献する活動を行っている。だから、常に工学にとっては未来は明るい。どんなに社会が行き詰まっているように見えても、それを工学で解決しようともがくのが工学である。
そしてその工学をやっているのは「精神的存在の人間」である。だから、暗い廊下を顔を下に向けて通り抜け、研究室に入ると高邁な理想や勇敢な心はどこかに消え失せて、「今日、片付けるものは何だったかな?」と思う。私の心は小さくなり、もう、役に立たなくなっているのだ。
・・・会社の昼休み・・・
あの暗い会社の片隅で、黙々とお弁当を食べていた中年の男性は、どうしているだろうか? あの会社の社長は「従業員は人間ではない」と思っているのだろう。
人間ならどう見ても、9時から12時までの業務時間より、12時から1時までのお弁当の時間の方が大切なのは当然だ。人間は仕事のために生きているのではない。生きるために仕事をする。
午前中の仕事に一段落をつけ、昼の休憩時間に活力をつけて、明るい気分になれば、午後の仕事はし、「この会社がどんなに苦境に陥っても、俺が立て直してみせる」と決意してがんばることができるだろう。
でも、昼休みには部屋の蛍光灯が消え、「おまえは人間ではないから、暗いところで食事をとれ。会社は人間を雇っているのではない。ただ、言われたことをする機械を雇っているのだ」と言われれば、午後からは規定通りの仕事をできるだけ目立たないようにサボって退勤の時を迎えるしかない。
私は「昼休みに電気を消すような会社は早く辞めた方がよい」と思う。
人間が仕事をするのは、自己の実現の一つである。労働は人間にとって大切なことで、その労働で得られた富を国民で分け合うのだ。
会社というのは「お金を儲ける」ために存在するのではない。日本全体の為に富を生み出し、それをできるだけ公平に日本国民に分けるための一つの手段なのだ。つまり、日本人という人間の労働とその分配に力を注ぐためにある。
工学にしても、会社にしても、その存在理由は「人間そのもの」なのだから。
(平成20年7月21日 執筆)